ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その16)

2007-12-09 23:45:53 | 能楽
アイとの問答が終わると、ワキはツレに向かって声を掛け、山姥の所望の通り月の下、「山姥の歌」を謡うよう勧めます。

ワキ「さあらばやがて御謡ひあらうずるにて候
ツレ「あまりの事の不思議さに、さらにまことと思ほえぬ、鬼女が言葉を違へじと
ワキ/ワキツレ「松風ともに吹く笛の、松風ともに吹く笛の、声澄みわたる谷川に、手まづ遮る曲水の、月に声澄む深山かな、月に声澄む深山かな。

これにつけて笛が鋭くヒシギを吹き、大小鼓は後シテの登場音楽の「一声」を打ちます。「一声」は能の中で頻繁に用いられる登場音楽ですが、『山姥』では特別な演奏、「頭越一声」(かしらこし・いっせい)というものが演奏されます。

「一声」という登場音楽は通常は三段構成で作られていて、まずプロローグとなる「初段」が演奏されます。ここではどの「一声」でも大小鼓により同じ手組が演奏され、また笛もアシライを吹いて情趣を誘います。「初段」に次いで演奏されるのが「越之段」(こしのだん)で、こちらには笛は演奏に加わらず、もっぱら大小鼓の手組の妙を聞かせる小段です。この「越之段」にはいろいろな種類があって、たとえば用途が広い「本越」、それが少し簡略になった形の「半越」(「片越」とも言う)、のほか、三番目物の後シテの登場に用いる「鬘越」(かつらこし)、狂女物の後シテに用いる「狂女越」などがあります。さらに重い習いの特定の曲だけに演奏されるものもあって、「鸚鵡越」とか「木賊越」などはその例。『山姥』の後シテの登場の場面で演奏される「頭越一声」とは、この「越之段」が「頭越」と呼ばれるものを打つことからそう呼ばれています。そしてこの「越之段」の後に演奏される「二段」目となって再び笛も演奏に加わり、ここでようやく役者は幕を揚げて橋掛りに姿を見せるのです(注=越之段を演奏せず初段目と二段目を連結させる「不越一声」というものもあります)。

役者が登場する際に演奏される囃子というのは、言うなれば役者が登場するより前にその役の印象を決定づけるようなところがあって、それだからこそ囃子方も大変気を遣っておられますね。同じ登場音楽であれば基本的にはほぼ手組は同一なので、それを曲によってどのように打ち分けるか。。正しい師伝と曲に対する深い理解、それに長い演奏の経験によって、お囃子方は微妙な情趣の違い~その曲の「位」を、舞台で打ち分けるのです。シテも登場する場面でお囃子方の力を借りて、はじめてその上で演技を始める事ができるわけですし、舞にしても地謡にしても、お囃子方との協力の上で成立していると言っても過言ではありません。それほどお囃子方の力は絶大だと思いますし、大役だと思います。

「位」の説明は本当に難しいと思いますが、それを同じ手組の中で打ち分けるのはさらに難しい事でしょう。ところが数ある登場音楽の中で「一声」だけは ほかの登場音楽とは違って、上記のようにいくつかの種類の「越之段」を持っていて、曲柄によってどれを打つのかが決められています。ほかの登場音楽よりも、より性格がはっきりしている、とも言えるでしょう。もっとも近来は「越之段」は演奏を省略してしまう事も多いので、その場合はどの曲でも同じ手組の「一声」になってしまうことになりますが。。

さて「越之段」に話を戻して、これは「初段目」と「二段目(役者の登場の段)」の間に打たれる小段なのですが、ところが「頭越一声」だけは ほかの「越之段」を持つ「一声」とは大きく異なっているのです。

それは「頭越一声」の場合はプロローグとなる「初段目」は打たずに、いきなり「頭越」の段から演奏が始まるのです。そして、その「頭越」は非常に急調で激しいもので、おワキの待謡に引き続いて突然演奏されるこの「頭越」は、まさにお客さまの耳目を驚かすと思います。さらに、これに続く「二段目」では、「頭越」とはうって変わって、非常に荘重な演奏に変わります。まさに動と静の対比が鮮やかな「一声」で、非常に印象的。この「頭越一声」が打たれる曲は『山姥』のほかにも『橋弁慶』など、少数ながらいくつかの例がありますが、『山姥』の場合は鹿背杖を重々しく突きながら登場する老体の山姥の姿に対して、その前段で演奏される「頭越」が彼女の猛々しい、燃えるような精神力を表しているようで、とっても興味深く、また効果的な登場音楽だと思います。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その15)

2007-12-07 00:39:29 | 能楽
シテが中入りすると。。ふいに空が明るくなります。さてこそ山姥の霊術によって一時的に夜なっていたものが、彼女が去るにおよんで再びもとの時刻にふさわしい空の明るさに戻ったのです。このところ、お狂言方の最初のお言葉が光りますね。

「。。また夜が明けた」

何気ないひと言なのですが、「不思議。。」という感情がとってもよく表れていて、地謡に座っている事の多いぬえは感心するお舞台が多い場面です。。と言うか、このひと言が光るようにお狂言方も格別に工夫しておられるように感じるので、大切にされている言葉なのかもしれません。

以下、『山姥』の間狂言の本文を掲出しておきますが、間語りとしては珍しく滑稽な内容の文言ですね。アシライ間ならばともかく、語リ間でこれほどおかしみを狙った曲もちょっと他に例がないのではないでしょうか。だからこそ、最初の「また夜が明けた」が、お客さまの耳に利くように謡われるのかもしれません。

<注>以下間狂言の本文は小学館「日本古典文学全集」に拠ります。ただし底本(山本東本)には冒頭の「また夜が明けた」という文言はなく、また底本では間狂言が山姥の素性を一つ言う度にワキと短い問答が交わされる形になっていますが、現行の演出では山姥の素性についていちいちワキとの問答はなく、間狂言が次々に語る形式になっているので、今回はその問答の部分を省略しました。

アイ「やれやれ なかなかの事かな。最前は暮れまじき日の俄に暮れたると存じて候へば。また夜が明けて満足申して候。まづこの由を申さう
アイ「いかに申し候。最前は暮れまじき日の俄に暮れたると存じて候へば。夜が明けて満足申して候
ワキ「げにげにまた夜が明けて候。方々は山中近く渡り候ほどに御存じ候べき。山姥には何がなり候ぞ
アイ「これは思ひも寄らぬ事をお尋ね候ものかな。我等も山中近く住み候へども。さやうの事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承りたる通り御物語申さうずるにて候。
アイ「まづ山姥には山にある団栗(どんぐり)がなると申し候。まづかの団栗が熟致いて谷へひょこ転びに転び落ち、それへ木の葉が取り付き、性根が入り、もとより団栗が目となり、これがおそろしき山姥になると申す。さるによって人の目の大きなるを団栗目と申し候。まだ何やら山姥になると申したが。おおそれそれ、山姥には息する野老(ところ)がなると申し候。まづ四五月の頃には五日も十日も雨の降り続く事がござる。さやうの時分には、えて山の崩るる事があるものにて候。その崩れたる間より、野老がちよとあらはれ、それへ塵芥が取り付き、手足胴体が出来、目鼻が揃ひ、野老の髭が曝れて白髪となり、これがおそろしき山姥になると申し候。まだ何やら山姥になると申したが。おおそれそれ、山姥には山中に総構へに建てたる木戸がなると申し候。まづ山中にいつたん門を建てたれども。その後修復も致さねば、扉も屋根も腐り果て、柱ばかり残り、それへ蔦葛が這ひまとひ、もとより性根が入り、頭胴体手足が揃ひ、これこそおそろしき山姥になると申す。さあるによつて山姥は、山にある木戸、と承りて候
ワキ「いや、鬼女にて候べし。木戸にてはあるまじく候
アイ「木戸。鬼女。まことに我等の覚えたるは片言にて、都の御方に定説を承り満足申して候。さてあれに御座候はいかやうなる御方にて候ぞ
ワキ「あれは都にて隠れもなき、百万山姥にて候よ
アイ「これは言語道断、奇特なる事を承りて候ものかな。さて最前の女の申したるは。山姥の一節を御謡ひあらば。我等がまことの姿をあらはさうずる由申して候。山姥の一節を御謡ひあって。我等にも山姥のまことの姿を見せて賜り候へ
ワキ「さあらばやがて謡はせ申し。山姥のまことの姿を見うずるにて候。方々もそれにて見られ候へ
アイ「心得申して候

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その14)

2007-12-06 11:58:46 | 能楽
ついに自分の正体を明かした山姥は、あらためてツレに「山姥の歌」を謡う事を所望します。

ツレ「不思議の事を聞くものかな、さてはまことの山姥の、これまで来り給へるか
シテ「我国々の山廻り、今日しもここに来る事は、わが名の徳を聞かんためなり、謡ひ給ひてさりとては、わが妄執を晴らし給ヘ
ツレ「この上はとかく辞しなば恐ろしや、もし身のためや悪しかりなんと、憚りながら時の調子を、取るや拍子を進むれば
シテ「暫させ給へとてもさらば、暮るるを待ちて月の夜声に、謡ひ給はば我もまた、まことの姿を現はすべし、すはやかげろふ夕月の。

「我が名の徳を聞かんため」とは、やはり自分がどれほど高名なのかを聞きたい、ということではなくて、山姥の行いが仏果に至る功徳を積む事になっているかどうかを確認したい、という事でしょう。さらに身の危険を感じたツレが「時の調子を取」り、「拍子を進」めたとき、山姥はそれを一時留め、日が暮れるのを待って月下に謡う事を頼み、自分もその本性を現す事を約束します。そうこうしているうちに本当の日暮れも近づいてきます。山姥の正体を明かしてからは、前シテの語気も次第に強くなってゆく事になっているのですが、「すはやかげろふ夕月の」に向けてまた次第に謡のトーンを落としてゆきます。このへん、面白く作曲されていますね。総じて『山姥』は謡が相当に凝って作曲してあって、作者が謡の技巧に長けていた証拠です。

シテ「さなきだに、暮るるを急ぐ深山辺の、
地謡「暮るるを急ぐ深山辺の、雲に心をかけ添へて、この山姥がひと節を、夜すがら謡ひ給はば、その時我が姿をも、現はし衣の袖継ぎて、移り舞を舞ふべしと、言ふかと見ればそのまま、かき消すように失せにけり、かき消すように失せにけり。(中入)

静かに立ち上がったシテは、ツレに向かって二足ツメ、さらに左袖をアシラってツレに念を押すように、「山姥の歌」を謡う事を勧め、また自分が本性を見せる事を約束します。

ここで興味を引くのは前シテはツレに向かって終始「山姥の歌」を「謡う」事を勧めている点で、前場だけでもシテは「山姥の歌の一節謡ひて聞かさせ給へ」「いかさまにも謡はせ給ひ候へ」「謡ひ給ひてさりとては、わが妄執を晴らし給ヘ」「暮るるを待ちて月の夜声に、謡ひ給はば我もまた」「この山姥がひと節を、夜すがら謡ひ給はば」と言っていて、また能の冒頭部分でもワキがツレを紹介する際に「山姥の山廻りするといふ事を、曲舞に作り御謡ひ候により」と、やはりツレは謡う人と言っています。ツレは舞う人ではないのですね。

中世に流行して観阿弥が能に取り入れた「曲舞」という芸能の実体は今では窺う術もないのでしょうが、「曲舞」という言葉自体が、この芸能が「謡う」だけではなくて「舞」を舞う芸能である事を表しているのでしょう。また現在の能の中の「クセ」の部分を見ても、文章に即した具体的な型というよりは、むしろ定型の型があって、それに演者が意味を付与していく、という感じで、これは「クセ」に独特の演技の構成法です。これも「曲舞」という芸能の特色をそのまま写し取った、と考える方が自然であるはずで、やはり「曲舞」は「舞」を見せる事が本義だと思います。

『山姥』のツレ、百万山姥もやはり舞を見せたものと思いますし、それがなぜ舞を所望されないのかは吟味する必要があるでしょう。ぬえは、山姥にとってツレが都で評判を取った「山姥の歌」の内容~すなわち、自分の「徳」が歌詞の中に見いだせるかどうか、が重要だったからではないかと考えています。後場でシテが舞うのも、そのツレの歌に「移り舞」という形で修正を加え、「まことの山姥をばいかなる者とか知」らしめるため、に他ならず、それによってツレに正しい山姥の姿を都人に伝えてもらう事で、自分の徳を世間に訴え、また自分の功徳を確定したかったのでしょう。ツレに舞を所望してしまえばシテの出番はなくなって傍観者に徹してしまう事になってしまいますから、ここは山姥が自分の行為をツレに知らしめるために、自らが舞う、その布石として作者があえて、ツレを「歌手」として設定したのだと解しておきたいと思います。

そう考えると、なんだか「古今伝授」「伊勢伝授」のような中世に流行った「伝授」の影響も、この曲にはあるのかも知れません。

ともあれ、再会を約したシテは突然怒濤の如くに走り出し(地謡も「言ふかと見ればそのまま」から位をぐっと進めて謡います)、「かき消すように失せにけり」と常座でヒラキして中入します。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その13)

2007-12-04 01:42:28 | 能楽
「年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり」この文句の最後のところ「恨み申しに来りたり」には、謡本にもわざわざ「手強ク」と注記がされていますが、ぬえが内弟子時代に『山姥』の謡の稽古を受けたときには「そんなに強く謡っちゃいけない。。(シテは)怒っているわけではないんだから」と師匠に言われたのをよく覚えています。

当時の ぬえはまだ文意を推し量りながら謡うことなど不可能な時期でしたし、ましてや行間を読むなどは思いも寄らぬ事でした。その後は、『山姥』はよく出る曲ですし、地謡に座りながらシテの謡をよく聞いているうちに、段々とわかってきた事もあります。彼女。。と言えるのかどうかわかりませんが、山姥は悩んでいるのですね。。

まず「年頃色には出ださせ給ふ」とシテに言われるように、ツレ百万山姥は都で高名をはせていたようで、山姥はその様子を遠くの山から望み見ていたのでしょう。ところがツレは自分が謡う言の葉の、それを実在する植物とたとえてみても、その先から垂れる露ほどにも「まことの山姥」の事を考えたことはなかった。これをもってツレは山姥が実在せず、想像の産物だと思っていたのかどうかはわかりませんが、現代人とは違うのだから、山姥の存在は信じていても、実際に会う事は難しいから想像に任せて作詞した、というあたりなのではないかとは思います。

そうだとするならば、山姥の存在を信じるツレは、それなのに想像を勝手に巡らして山姥を脚色した事を、まことの山姥は怒ったのでしょうか。いやそうではなくて、シテはツレが山姥の供養をしなかった事を恨みに思っているのです。

シテ「しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらんと、恨みを夕山の。。」

山姥が口惜しく思っているのは、みずからは省みられずにツレ百万山姥ばかりが賞賛を浴びる事への嫉妬ではないでしょう。山奥に住んで誰からも供養されない山姥の身が、たまたま自分の事を曲舞に作って売り出した芸能者が出現した事を知って喜び、しかし彼女は自分への賞賛は欲しいままにしながら、まことの山姥のことはやはり一顧だにせず、「弔ひ」や「仏事」をしない。。山姥が自分の肖像権の利用に対する対価としてツレに期待していたのは、ツレと同等の名誉でもなければ、みずからの実像を取材もせずに脚色した慰謝でもなくて、自分を「弔ひ」、「仏事」を行ってもらうことによって「輪廻を免れ」て成仏する事だったのです。う~~ん、いかにも中世の色が濃い能です。

ところで話はそれますが、このシテの言葉の中では、やはり「道を極め名を立てて、世上万徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや」という文句が、いやでも目につきますですね。。

この言葉は言わずと知れた世阿弥の用語ですが、それが世阿弥が残した膨大な伝書の中で特段に目を引き、世阿弥の用語とまで言い得るのは、この言葉が『風姿花伝』の「奥義云」の中で、跋文を除いた本文の結論として用いられているからです。

「正直円明にして世上万徳の妙花を開く因縁なりとたしなむべし」(『風姿花伝』「奥義云」)

試みに訳してみれば「(芸道に対して)正直公正であるこ事こそが、貴賤を問わず世上のすべての人々の感銘を得る芸に至る根本的な条件となると心得よ」といったところでしょうか。けだし名文の誉れ高い一文で、この語が使われている『山姥』が世阿弥の作と考える根拠になると思います。『風姿花伝』自体は世阿弥が系統立てて著述したものではなく長い年月に書き記した伝書をまとめたもののようですが、「奥義云」は執筆年代こそ特定できないものの内容の上でもほかの伝書よりも比較的後に書かれた公算が大きいようで、そうなると、やはり『山姥』は、世阿弥の作品としては成立が遅いのではないか、と ぬえが考えるのもあながち間違いではないかも。

ちなみに『山姥』の中には ほかにも世阿弥が伝書で用いた印象的な用語が現れます。それは「クセ」の中なのですが。。それはまたその解説の時に。。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その12)

2007-12-02 01:03:57 | 能楽
ワキ「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな、さて誰とご覧ぜられて、山姥の歌の一節とはご所望候ぞ

シテの不思議な所望を聞いて、早速ワキは不審をします。それはそうでしょう。いかに都で高名な百万山姥といえど、彼女はこの山のふもとで乗物を捨てて、自らの足でこの山を登って来たのです。しかも上道・下道とある迂回路をあえて避け、最も厳しい登山を強いられる上路越の道を選んで登ってきた彼女は、随行員や道案内まで連れた物々しい大所帯の一行ではあるけれども、まさか都の芸能者とは想像がつかない方が普通でしょう。ところがシテは、まるで旧知ででもあるかのようにツレの名前を名指しし、それどころか彼女の謡う「山姥の歌」の一節まで諳んじているのです。。

シテ「いや何をか包み給ふらん、あれにまします御ことは、百萬山姥とて隠れなき遊女にてはましまさずや、まづこの歌の次第とやらんに、よしあしびきの山姥が、山廻りすると作られたり、あら面白や候

それに続けてシテが言うこの言葉がまた不思議。

シテ「これは曲舞によりての異名。さてまことの山姥をばいかなる者とか知ろしめされて候ぞ
ワキ「まことの山姥は山に住む鬼女とこそ、曲舞には見えて候へ

このところ、上記は下掛り宝生流のおワキの言葉なのですが、福王流のおワキでは微妙に言い回しが異なっていて、「曲舞に見えて候へ」と謡われますね。「曲舞には」と謡う宝生流と「曲舞にも」と謡う福王流。ちょっとした事なのですが、ワキの答えのニュアンスはかなり異なります。

前者では「それは誰でも知っている定義で、現に百万山姥の曲舞でも同じように描かれている(あなたも聞き知っているらしいが、その通りなのだろう)」、後者では「自分もよく正体が分かっていないのだが、百万山姥が謡うこの慣れ親しんだ曲舞にはこのように謡われている(だから自分もそうなのかと思っている)」という感じで、前者には断言に近いニュアンスがあり、次のシテの言葉はワキにとって意外なものであるはずで、後者ではワキの山姥の実像の理解にはなお曖昧な点があって、これ以後ワキは説得力のあるシテの応対に次第に引き込まれてゆく事になります。

じつは、このあたりが前シテの登場の半分あたりにあたり、そして面白い事には、おワキは前場ではこの言葉を最後にして発言を控えるのです。この次にワキが言葉を発するのは前シテが中入した後。だからこそその沈黙の前の最後の言葉は『山姥』のワキという役のアイデンティティに関わるひと言なのです。つまりこれ以後シテが謡う長文の内容を注意深く聞くおワキの姿がそこにはあるわけで、その姿勢を表すのがこのひと言とも言える。ちょっとした ひと事ですけれども、お流儀によって よく文章が練られていると思います。

シテ「鬼女とは女の鬼とや、よし鬼なりとも人なりとも、山に住む女ならば、わらはが身の上にてはさむらはずや、年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり、道を極め名を立てて、世上万徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらんと
シテ「恨みを夕山の、鳥獣も鳴き添へて、声を上路の山姥が、霊鬼これまで来りたり。

「よし鬼なりとも人なりとも」という文句には、ちょっと論理のすり替えがあるような気もしますが。。

ともあれ、この長文の謡の中でシテは自分が山姥の化身である事を名乗ります。これまた問題の多い文章ではありますが。。