やはり、僕に何か来続けているんだよなあ、そんなことを改めて感じました。面白い!
目指すは文化としての看取り道
そして、女性はいったん踏み出すと腹が座っている分果敢です。男は、背負ってきたものを引きずるんですよね。
社会的な権威であったり、責任だと思っているものだったり、経済的なことだったり(><)
午後から、看取りをテーマにした長谷川ひろ子監督の「いきたひ」上映会と講演会でしたが、特に女性は思い定めて前に進む名人だと改めて。本当に右脳的だと思うと同時に、今の時代、それが大切なんだよなあ。
40歳ちょいで4人の子どもを抱えてご主人を看取り、一人果敢に生きてきて新しい時代の地平を拓いている。
いや、数十年前の真っ当な時代に時代の意識を引き戻そうとしている?
目指すは、どう死なせないかではなく、どう生きていくかにフォーカスする社会。そのための死生観の引き戻しなんですね。文化としての看取り道を通して、エネルギー大国を築きたい。壮大ですが、真っ当です。
島根県って、そういうすごい時代の中心軸たり得たのに、自ら放棄したんですが、それを悔やむ意識があれば素敵だなあと思います。ですが、行政の意識ってそんなヤワなものじゃないですよね。
あっ、写真の左は長谷川監督。右は、昭和を人形で表現し続ける米子の人形作家・安部朱美さん。安部さんの作品が、この映画の中でとても効果的に使われ、一層生命が開くんですね。どこかと繋がっているお二人、本当に素敵ですね。
もっと楽しまなきゃ
このイベントが終わり、吹雪の中でとても面白い女性とお茶しました。
1/28のかっこちゃんの映画と講演会のチケットを手渡すためでしたが、それにしてもこの吹雪の中(^^;;
時間があっという間に過ぎる。もったいないよなあ、もっと話したいと思いましたが彼女には予定がありまして、それにしても、時代が来ているよなあと。
ただ、時代を創る子どもたちのボリューム感、彼女が考えるほど多くないのかなあと感じているんですが、実際にわが子を持つ親世代ですし、ぶっ飛んだような能力を備えていそうな彼女ですから、僕の感性が曇っているんでしょうね。
面白い時代が来ていますね。そんな時代変化を肌感覚として持てるところに居続けられたら、どんなに面白いだろう、です。そのためには、自分がもっと楽しまなきゃ、って改めて思わされましたヽ(^o^)丿
予報通り雪が積もりましたね。ただ、我が家のあたりでは量は少なく3センチ。だけど風は強い。
おっ、日が射してきたきました。窓から見える範囲ですが、青空も広がってきました。
さっきまで、吹雪だったのに。松江らしい変わりやすいお天気のようです。
今、パソコンもテーブルも木漏れ日の中。
木の葉の揺らぎが影の揺らぎとなり、キラキラしています。こんな中でメールやブログを書く、贅沢です。
昨夜書いたブログについて、メールで感想をくださった方がありました。
主な内容は4点。ちょっと紹介して、補足もしたいなあと。勝手にすみませんm(__)m
①だから子どもは、ハガキで箸がきれるんですよ。ところが、「可哀想」と思ったら、壊れるんです!②学生に意識の壁!そりゃそうですよ…この時代のルールは免許が必要でそれを取得することを目的目標としているときに、ぶれるだけですよね!③新たなる地平ではなく、元に戻るんですよね!④長いものに巻かれるのではなく、学校は、国が作ったものだから、お上の下で仕事をしているだけですよね!
①、そうなんだ!でも、よくわかる気がしますね。そして、「可哀想」と思える子どもが増えたらいいな。
②、それもあるけど、大学生にもなるとそういうものを受け入れるしなやかさが失せてしまうと。そう言えば、シュタイナーだったか、20歳を過ぎると自我の鎧を被るようになるとしていましたね。
③、そうなんですよね。きっと。大いなるものと繋がる、自然と意思を通じ合う、先駆的にものを知る、そんな力を削ぎ落としてきたと言われますから、進化しつつ、もともと持っていた力を意識で取り戻す時代。
④、大枠は決められているけど、その中での裁量権は教委や学校にあるので、やっているところもある。エビデンスを持ち出すのは、他と変わったことをやるために理屈付けをするのが嫌なんだろうなあ。面倒を起こしたくないんですよ。だから、先行事例が出て来てから重い腰をあげようかって。
そうか!割り箸が名刺で切れる、誰でも切れる。子どもは特に切れる。
僕は、やったことがないからわかりませんが、たぶん切れるだろうなぁ。でも、怖いからやりません(^^;;
たぶん、どう書いても誤解されるんだろうなあ、と思いますが敢えて。
ひょっとしたら、それって僕の役割かもと思えるからなんですけど、そこも誤解されるんだろうなあ(^^;;
で、このことって、特に行政関係者にとって絶壁なんだろうなあ。割り箸、絶対切れないだろうなあ。
“権威”と言われるものの中心軸、社会というコマの芯ですからね。というか、ひとまずそうなっている。解は自分の中の筈、だけど
今日は、二人の方と話す、これが全てのプログラム。
最初の方との話の核心の一つは、行き詰っていると思える社会と自分の関係性をどう考え、その社会に対して自分は何をなしうるかってことなんですが、普通は、相手が大きすぎて、無理だと思っちゃう。
ところが、橋本治は「負けない力」の最後に、普通の日本人は解を外に求めるから、自分と社会という対比で考えるが、社会は一人、また一人。自分とその一人という対比で考えると違ったものが見え、自分ができることが見える。かなり、表現が違うんですけどね。解は自分の中にあるんですよね。
そうはさせない仕掛けが縦横にめぐらされている。
特に、教育って個性重視とか言いながらそうじゃないシステムがガチガチに施されている。
それは、子どもの都合なんかまったく考えてなくて、国や文科省の都合、教育委員会の都合、学校の都合、管理職の都合、先生の都合でできてるんだろうなあ、と思わずにいられない。
その上に、親の都合や議員の都合何て入ってきたりして(^^;; 子どもが壊れないのが不思議。
全ての物に神が宿り、全ての物に意識がある
この本を閉じた後に手に取ったのが、東大医学部大学院の教授だった矢作直樹先生と裁判官判事や大学教授を歴任した稲葉耶季さんの対談「こっちの世界、あっちの世界」。
ここで、予定調和じゃないけど、チラシに名を連ねることになり運営スタッフになった1/28開催の「山元加津子講演会」と彼女監督の「銀河の雫」上映会、この映画の主題はこの本とシンクロ。
動物や植物だけではなくてすべてのものに意識がある。ネパールが舞台の映画では、全てのものに神が宿るですが、お二人の対談本にも、石にもコップにもパソコンにも意識があると。
そう考えると、医療は相当違ったものになる。矢作先生は、医療現場からそれを実感して発信している方ですが、この本では、それを学生に伝える必要があるが、学生の意識の壁が邪魔をするというんですね。
そりゃそうですよ。知識の蓄積こそすべてに勝る価値、というのが今の学校教育のベースでしょうから。
しかし、量子論ではその意識の壁に邪魔されるものが説明できるというんです。保江先生の仰る素領域理論と置き換えれるんじゃないかと思えるのですが、頭悪いからわかりません。
だからスプーン曲げもハガキの割りばし切りも当然。ただ、エビデンスを持ち出すと切れないんだろうなあ。
常識の壁、意識の壁、自我の壁
これって、橋本治とクロスするんですよね。
論じる視点は違うし、次元も違うように映るけど、考え方って一緒だよなあと思えるのです。
常識の壁、意識の壁、言葉を変えたら自我かなあ、これを超えたところに人類の新たなる地平が拓けるんだろうなあ。自然体、あるがままに生きれたら最高だよなあ。
あっ、蛇足ですが、完全米飯給食を推進する皆さんが、雲南市のお偉い皆さんにお願いに行ったところ、エビデンスを示しなさいと言われたのだとか。
幕内秀夫さんは、エビデンスを翻訳すると「やる気がない」ということだとバッサリ。
たった数%のわかったことを盾に、歩を進めない、特に日本独特の「長いものに巻かれろ」主義。創造力や感性を発現させるって、多くの彼らにとってはタブーなんだろうなあ。