今頃かよ~と言われそうですが、そう、今頃になってしまいました。
本当は、芋づるの苗を取るつもりでビニルマルチとトンネル、ダブルで保温して種芋を植え付けましたが、いつまでたっても芽が出ず、買った苗で植え付けましたが、、、
そろそろ苗の植え付けも終わるころにやっと芽が出て、それからは勢いが良かったですね。
それゆえ、随分芋づるや葉っぱを楽しませていただき、今日は超遅い芋日理に合わせて最後の芋づると葉っぱも収穫。
明日は、芋づるの煮付け。
それはそうと、今頃になってですから、お芋もやたら成長してくれて、で、でか~~
さて、来年はどうするか?
この芋、やたら美味いので来年も作ろうと思いますが、、、
「漢字百話」
内田樹の本で、漢字に含まれる口って呪文を収める“サイ”という容器であるとの説を唱える漢文学者・白川静を知り、この本を手に取りました。
そういえば、地元紙の文化欄に白川先生の漢字の成り立ちが連載されていたような。
手に取った「漢字百話(本当は怖い漢字のはなし)」、もっと面白おかしく書かれていると思ったのに、まるで学術書のようですが、何度も読み返すと面白い。
元に返して、“サイ”と読むと今までの漢文学って根底から変わる、変わってきたのかな?
歴史って、こんなところがありますよね、一つの発見が定説を根底から覆してしまう。
だから?新しい発見って世に出にくい、権威ある先生方によって隠蔽されてしまっている、なんて話をよく聞きますが、、、
書(ふみ)とは
だから?この本、読みこむと面白い。
読みはじめのころ、“書”について書かれていました。
房仙会の米子の書道展に来てくださった、欧州で評価が高い画家の方が、主宰する房仙先生の人柄や思いと生徒の皆さんの気の高さを感じる素晴らしい書道展でした、って仰ったことに通じるなあと。
書とは、しるされた文字である。わが国には、書も史も文もみな「ふみ」とよむ訓があった。いまの音訓表では、文が数年前(昭和48年)の改定で回復されたほかは、なおそのようにはよまぬ定めである。きびしいことを定めたものである。
文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう。その限定的用法が文字である。文字は、ことばの呪能をそこに定着するものであり、書かれた文字は呪能をもつものとされた。史は、その書かれたのりとの器を木の枝につけて、神霊にささげる祭儀を示す形で、いわば告文である。それはもと史祭とよばれる祭儀を意味した。
書はその告文を境界の地に埋めて、その呪能によって域内を衛るためのものであった。字形は者と聿(筆)とからなる会意字であるが、聿はのちの附加部分であり、者そのものに本来の意味がある。者を声符と解するのは誤りである。
文字は便利だけど
書かれた文字は呪能を持つ~思いは伝わる、単なる文字として書いてしまうのかどうか、書道というくらいですから、思いや生き方を込める向き合い方をしたいものだと。
言葉ではすべての思いが伝わらないからイメージで伝えあうという方がありました。
言葉は、そのイメージを補完するものだと。
亭田さんは、文字を持たない先住民族は3万年間のことを口伝し、表象的な図を用いるが、読める人は膨大な情報を読み取れるようだと仰っていましたが、漢字の元も一緒かも。
文字になって、伝わっていたものが伝わらなくなった。のかな?
カタカムナも同じかもしれません。
文字は便利だけど、伝わる情報量は限定的かもしれませんね。