図書館は連休の間、ずっと開館していたので、私にとってのゴールデンウィークはこれから。
目のつきやすい場所に新刊図書が並べてあるのだが、最近、その棚がはげてしまい、なんだか寂しくなってしまいました。
しかも「今日の返却本」のコーナーもすっからん。
何かの本・・・・と思いついたのは、やはり硫黄島も含む東京アイランド。
「青ヶ島の村落構造と社会組織 -島の生活・文化の変容を視点として-」の貸出件数1件、私のゴリ押しで購入した「アイランドタイムズ(これも青ヶ島を題材にした本)もわずか3件。
来館者の皆さんに青ヶ島を宣伝しようと1番目立つ場所に2冊セットで置いてみた。
と、と、ところが・・・・今日の来館者は2000人越えているはずだが、ほとんどのお客さんは目に留まっても素通り。手に取って中身を見たりする人は皆無。
青ヶ島の下に「硫黄島の戦い」「栗林忠道(硫黄島の戦いで守備隊総司令官を務めた)」などの硫黄島に関する本を置いたところ、あっという間になくなっていました。
「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」で有名になってしまったので、興味を示したのは納得できる。
360度絶海の大海原からにょきと突き立っている奇抜な島の表紙を見ても興味がないのは何でだろうね・・・??
昭和31年(1956年)に完全自治制の「東京都青ヶ島村」を設け、選挙権・被選挙権が認められるようになったのは、日本で最も遅れていた。
人口推移表を見ると、天明5年(1785)年に丸山が大噴火する前の人口は343名。
今のように航海術の発達がなかった頃なので、八丈島からの救助船がやってくるのは至難の技、やっと来たかと思えば島民全員が乗れるわけではなく、200名以上が命を落としたといわれている。
起こし返りのために残留していた人はわずか12名。だが、八丈島への船を出すたびに遭難や破船などで交通が途絶えたこともあった。
享和元年(1801年)から16年間は無人島の時代が続いていたが、文化14年(1817年)佐々木次郎氏が起こし返りを再開、それから7年後の文政7年(1824年)ほとんどが故郷還住に成功した。
八丈島~青ヶ島の定期船「還住丸」という名前の由来はこれだったのです。
2007年3月現在の人口は192名だが、最大記録は明治14年(1879年)の754名だったことがわかる。
これだけでも興味があるはずなのに、「青ヶ島」に見向きもせず素通りだったのはちょっと悲しいーですねぇ・・・。