職場の雑誌架に登録する予定です。今は回覧中なので、今日だけお借りしました。
日本海事広報協会の雑誌なので、書店では販売していない非売品だと思います。全国の読書施設に寄贈されているようです。
表紙は今年の7月に就航する予定の「たちばな丸」。東京から三宅島、御蔵島、八丈島の航路を担ってくれる貨客船です。東京を前夜のうちに出航し、翌朝は八丈島の底土港に入港。黄色くて明るい船体のお隣に、黒潮の色をイメージしたネイビーブルーの「あおがしま丸」。今までは底土港から反対側の八重根漁港までタクシーで向かわなければなりませんでしたが、これからはその場で大型「おがさわら丸」から中型「ははじま丸」に乗り換える感覚になります。
どちらも、山口県下関市の三菱造船で作られました。下関で作られた船で東京から日本一秘境村の青ヶ島へ。
「あおがしま丸」は499トン、「たちばな丸」は5700トンの大きさ。
あおがしま丸は主に八丈島から青ヶ島間の運用なので、50人が乗れる客室と、コンテナを38個まで積めるスペースあり。還住丸と同じく、余計なものはつかないシンプルな構造。
「たちばな丸」は東京から八丈島間、およそ10時間なのでレストラン、シャワールーム、キッズルーム、ドレスルーム(授乳室)、喫煙ルーム、2等椅子席を廃止し、横になって就寝できる2等和室と特2等寝台を装備。
青ヶ島に関する記事は2ページも!!著者は菅田正昭氏。著物に「青ヶ島の神々~でいらほん流神道の星座~」(2012年8月刊)があります。
昭和46(1971)年5月から昭和49(1974)年1月までは村役場職員として、平成2(1990)年9月から平成5(1993)年7月まで村助役として住んでいらっしゃったことがあるので、今となっては貴重な昔の様子が載っています。
昔の青ヶ島は想像を絶するほどの過酷な環境でした。1度目の在住(昭和46-49年)のときは、1ケ月も船が来ないという経験を3回も味わっています。1番長い欠航期間は昭和47年1月から3月にかけての39日間。年賀状は御蔵島に誤配され、さらに小笠原に誤配、青ヶ島に戻ってきたいわくつきなので3月になってやっと落手。
還住丸の前代、村営連絡船の旧あおがしま丸が就航したのは昭和47(1972)年8月24日。還住丸の119トンに比べると、49.5トン。半分以下の小ささです。0と5の付く日に就航なので、5、10、15、20、25、30日の月6日しか船は来ませんでした。それ以前の船は、就航すると決まった前日、雑貨屋も島民も、当時2ケ所あった特殊公衆電話へむらがり、八丈島の商店へ電話。それらの物資を午後8時半頃出航する船に搭載。午前0時ころまで八丈の沖合で停泊。午前4時半から5時の間に青ヶ島沖合に着く。その頃は船を着岸できる港がないため、大きな船から小さな船に乗り換える「はしけ」作業。人が暮らす岡部までアイスクリームを運ばれるのに何時間も要すため、無理でした。49.9トンの小さな「あおがしま丸」はかろうじて当時は小さな桟橋に着岸できたので、昭和47年のクリスマスには保育所では初めてクリスマスケーキがふるまわれたとか・・・。
49.5トン → 119トン → 499トン。40年以上前に比べると船の大きさは10倍以上。これで安定した就航になるはずですが・・・桟橋に波が入ると荷役作業は思うように進まないらしいです。明日(2月5日)は就航予定ですが、桟橋に波がかぶりそうなので、欠航になりそうです。
1月31日(金) × 欠航
2月 1日(土) ○ 就航 貨物便8:30発(1月31日分)
2月 2日(日) 運休日
2月 3日(月) ○ 就航
2月 4日(火) 運休日
---(ここから予想)---
2月 5日(水) × 欠航 八丈島からそのまま芝浦へ
2月 6日(木) 芝浦で積荷作業後、八丈島へ
2月 7日(金) ○ 就航 貨物便8:30発
2月 8日(土) × 欠航
2月 9日(日) ○ (8日欠航した分を就航) 予備日
2月10日(月) ○ 就航
(あくまで予想なので、必ずその通りになるとは限りません)