あけぼの

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「ごめんねお父さん、時計と宝石交換しちゃって!」

2010-02-19 05:20:19 | コスメ・ファッション

母の死に因み父も思い出した。母同様、敬愛する父を忘れたことは無いが、かつてスリランカを訪れた時、その昔父の買ってくれた時計を出来心で宝石と交換してしまったのだ。

インド洋に浮かぶ真珠と呼ばれるスリランカはその名のごとく「光り輝く」美しい島である。巨大な仏教遺跡が多く、主産業の紅茶は勿論、サファイア、ムーンストーン等を産出し、観光立国だった。今も変わらず魅力的な国だがシンハラ族とタミール族の紛争の影響で観光事業がダメージを受け続け、長く経済の低迷に苦しんできた。つい最近「紛争終焉」という新聞記事を見たが、北部には地雷が多く残存し、内戦に巻き込まれた人々へ平和な生活が戻るのはいつのことだろう。

 キャンディーの路地裏、骨董屋か質屋のような構えの薄暗い店で悪魔祓いの儀式に使う不気味な仮面を買い、出ようとしたときだった。マネキンが胸に掛けているサファイアが目に留まった。えも言えぬきれいな菫がかった紫色で、角度により多重の輝き見せまことに深みのある宝石だ。聞けばアオライト(菫青石)、ウォーター・サファイアとも呼ぶそうだ。魅せられて目はそれを凝視し、筆者の心中の首にはもうぶら下がって離れない。だがいつものごとく持ち歩き金は少ない。こんな店はカードは受け取らない。店長が出て来た。彼は筆者の顔と腕時計を見て言った。「良い時計をしていますね。古いけど上等だと判ります。交換しませんか?」「オー、これは若き日父が郷里の宝石店で買ってくれた時計なんです!」と心の中で拒絶した。が、愚か女が勝手に返事した。「お願いします!」と。以後この菫青石を見るたび心中で父に謝る。「ご免ねお父さん!」恐らく死ぬまで詫び続けることだろう。(彩の渦輪)

 

 


母の死に学生がくれたお悔やみカード

2010-02-16 08:45:01 | アート・文化

As You Honor Your Mother,

You'll never forget your mother's face, the gentleness of her touch.., they let you know you were loved.

You'll never forget the stories she told, the traditins she handed down..., they let you know who you are.

You'll never forget the lessons she taught, the things she stood for..., they are her gift and your legacy.

You'll never forget, and you'll always know that you honor her every day in how you live and who you are.

With Sympathy,

スコット、ゲーリー、ブライアン、ケビン

筆者は葬儀のため日本にとんぼ返りし、日本文化の講座のクラスに間に合って戻ってきた。教室に入ったら、筆者が遅れたときのため、念のために、とAdvanced Japaneseのクラスのうちの4人が代理教授をするため教室に来てくれていた。そして渡してくれたのが上記のカード。美しいいカードに同情溢れる日本語の寄せ書きがしてあった。

有難う、スコット、ゲーリー、ブライアン、ケビンさん!(彩の渦輪)

 


妻の母堂逝去

2010-02-10 11:35:54 | ブログ

妻の母、八重子さんは誕生日24日の1日前、老衰のため郷里の老人ホームで逝った。122日お見舞いに行き、軽い寝息をかいておられたベッド上のお姿から拝顔し、忍びよる臨終を見た。96歳の生涯、「有難う!」を唱えて合掌した。賢い昭和の母だった。奇しくも彼女にとって私が最後に会った親族だったようだ。わが心中に存在する母、綾子への思いと去来する母への慕情が、「親が生きているうちに会うべきだ」という信念に通じ、我が母の死に目に会えなかった代わりだったろうが、八重子さんの死の直前に、アメリカで教職についている妻の代わりに妻の母に会っておけたのだった。

八重子母堂に対して思い出せば私は結婚当時から辛酸を舐めさせた娘の連れ合いであったはず。「こんなはずではなかった、この結婚は失敗だった!」と思われたに違いない。最初の賞与は5000円と餅代だけ。翌年から給料遅配が3カ月続いた。中小企業勤めの相手に嫁がしたことに後悔の念に駆られたことだろう。1年後、長男(初孫)が生まれ、手伝いに東京に行ってみたら6畳のアパート一間、台所、便所は共同。勿論、風呂などない。井戸端で子どものおしめを洗濯しても雨ふりは乾かす場所もない。部屋で石油ストーブを使ったら大家が飛んできて、「危ないから禁止している」という。仕方なくおしめの1枚、1枚をアイロンを当てて乾かす始末だった。その折、余りにも情けなかったのか涙がアイロンの上にポタリ、ポタリと落ちた。その都度、ジュン、ジュンと音がしてワイフがそれに気づいたという。大学へ進学する女子が少なかった当時の大学卒の娘の親として、新婚の娘の生活の現実に耐えられない心境であったことだろう。

子どもを連れて里帰りした折、洗濯した子どもの下着や服が買ったものでなく、全部、娘が自分の服地や下着をほどいたり、夫の股引のすそが子どもの袖になっている手作りで情けながったそうだ。隣に干してある兄嫁の同い年の子どもの衣類は既製品のピカピカ。比較して余りにもみすぼらしかったことから、「こんなところに娘を嫁がしたのか」と思われたくないので、多くの運転手の手前「見えないところに干してくれ」と言われたとワイフが後に語っていた。

時は過ぎ、老いた母が自慢出来たのは娘がUSで学位をとり、故郷で講演会をやり、郷里の同級生主催で博士号取得パーティをやってもらったことだった。「その母ここにあり」と主役になれて溜飲をさげ、晴れ晴れとした気分になられたと思う。(自悠人)