ちょっと離れた土地に早朝草刈りに行った。種類の違う雑草が1メートル近く伸び放題。雨風のせいで場所によっては倒れ込んでいた。ここまで延びれば鎌が折れるまでやるしかない。ところが、である。やぶ蚊が顔をめがけて襲い掛かってきたのだ。だが、追っ払えない。右手は鎌、左手は草を掴まなければ刈込みが出来ないからだ。立ち上がって休む時だけが追っ払うチャンス。周りに蚊取り線香を2つつけているのだが役に立たない。屈んで仕事をすれば目元を中心に集中的に顔を襲う。痒いのだが辛抱しないと仕事がはかどらない。約1、5時間挌闘して草刈りを終えた。目が腫れあがって視野が狭く帰りの運転も楽ではなかった。帰宅して鏡を見て驚愕した。右目は腫れて小さくなり、口元は斜めに腫れあがっている。鼻、額も刺されて腫れ、左顎は腫れて垂れ下がりまるで化け物だ。蚊も集団で襲うと怖いね。「蚊に刺され」でこんなにひどい顔になったのは生まれて初めてだ。日本には感染症はまだ上陸していない筈だが、娘の薦めで午後医者に行った。蚊の毒消しは無い、ということで副腎皮質ホルモン剤の塗り薬だけ。明日の朝少しは腫れが退いてるかな?(自悠人)
暑い日中の観光を終えシーラーズでは小さなホテルを選んだ。このホテルに到着した日の夜夫がぶっ倒れた話は先頃自悠人が書いたが、アフメッドの優しさに触れねばね。その日は日曜日、動転し救急病院とタクシーを尋ねたら、「大丈夫!」とホテル警備員、アフメッドが乗せてくれた。医者は2、3の英単語を混ぜたペルシャ語だけなので、ましな英語を話す彼が通訳し、点滴薬を買い点滴が始まった。点滴終了後彼は迎えに来てくれた。お礼に何かあげたいと思い、「お子さんはいるの?」と聞いたら、「男子2人です。1人養子にして!」と笑顔で言われた。「イエスと答えてあげたい!」と切実に思ったほど優しい警備員さんだった。せめて1年でも息子を日本の学校に通わせてあげたらどんなに喜ぶだろう。 夫は休養、筆者はシーラ-ズの美、探訪 翌日夫はホテルで休養、筆者はシーラーズの街を超特急で見ようとホテル専属のタクシーで回った。高地に位置し気候温暖、年中薔薇が咲き、緑濃い庭園が多い。有名詩人も2人生み出したシーラーズはアケメネス朝が起こった地だとか、エスファハーンに負けず美しい街だ。特に感銘を受けたのはイラン建築の総集編とも言えるナランジェスタン博物館だ。1886年に完成した。花咲き乱れる庭園、蔦の巻きついたアーチ、ステンドグラス使い放題のアーケード、窓、天井等。同じく忘れ得ぬナスィーロル・モルク寺院。繊細な彩色タイルワークとステンドグラスを嵌め込んだアーチ状の柱の連続が太陽光により天井、窓、絨毯と呼応し、ピンク一色に反射して息を呑む美しさ。キャリーム・ハーン城壁は滞在中何度も通過するシーラーズ観光の目玉の1つだ。 結婚55周年記念写真は王、王妃の衣裳で! 夫が恢復し、賑わう旧市街へ写真撮影に。煉瓦造りの美しいヴァキール・バザールを潜り抜け、その奥のサライェ・モシールという伝統工芸品バザールへ。その2階の奥に写真屋さんはあった。約250年前の王、王妃様の衣裳を貸してもらい、結婚55周年を祝った。サファヴィー(Safavi )王夫妻の衣裳だそうだ。 人は優しく美しいシーラーズの街だった。絶対またこの町へ、特にアトラス・ホテルに行ってアフメッド一家をレストランに招待しようと決めている。(彩の渦輪)
1.結婚55周年記念撮影は250年前のイランの王、王妃の衣裳で 2.ヴァキール・バザール入口 3.向かって右から2人目がアフメッド 4.5.ナランジェスタン博物館
約60年前、駒込千駄木町の学生寮で貴兄に初めて会ったね。お互い出身校が倉吉東高だった。それ以来60余年、今日まで夫婦ぐるみの交際が続き、惜しみ無い友情を頂いてきた。万博では小学生の息子連れで垂水の上高丸団地の住居に泊めて頂いたこと、筆者の見合いの折、大阪は京橋駅近くのアパートに立ち寄らせていただいたこと、忘れてはいない。退職後は貴殿はアクリル・アート及び趣味と体力作りを兼ねた畑仕事、それも耕運機を使って、と本格派、筆者は地球バックパックの旅と油絵、と、興味の対象は異なれど、いつも要所でお祝いや激励の働きかけを交換してきた。今回個展が終わりホット一息、ご馳走したいと夫婦で取手まで出かけたが逆にご馳走になってしまい、その上、ワイン発祥の地のジョージア・ワインでホームパーティーの準備までしてあった。ジョージアは去年までグルジアと呼んでいた、欧州最古の人骨が出た国、ヨーロッパが始まった国で葡萄の品種数は世界一だ。おもてなし最高のジョージアで仲良くなったアミール君やその一族に先月イランで世界一のおもてなしを受けたが、日本の取手でまたジョージア・ワインで心尽くしのおもてなしを頂くとは!では筆者はジョージアの隣国、アルメニアの有名なコニャック、イギリスのチャーチル首相も愛飲したというコニャック・アララトを探し、遠からず友情パーティーを考えようか。楽しみだ。(自悠人)
ワイフが高校生のとき、生前の父から「お前に山を買っといたよ!」と権利書を貰った。資産の価値には関心の無い高校生、ず~っと忘れており、結婚するときには持ってきたが結婚してからも銀行のSafty Boxに入れっぱなしで55年。従って62年前の権利書だ。父親が亡くなった時、兄は「親の財産は俺が全部貰う。財産放棄のハンコを押してくれ!」と言い、兄の独り占めで何も頂いていない。最近傘寿も近づき、モノの処理の一環として上記山林の権利書を思い出し、私に山を見てくれという。自分の郷里の山林、面積は3000坪だ。先週森林組合の人に案内を頼んだ。
舗装されたくねくね林道を上がると三叉路、そこからまた林道を下るが、三叉路から長さ300m、幅27mから80m、だが長さの半分は幅30mと狭い矩形の斜面だ。反対側は町有地だ。雑木が茂っており蔦も絡んでいる。道路との境目にガードレールが走っている。柵から覗くと斜面、30度はあるだろう急勾配だ。斜面下の境界線は雑木で不明、利用価値は斜面を麓まで自分の足で下って見ないと判らない。昔、麓側は農地だったようだが今は山林に化けている。山林を下れば8軒のだ。そのから何キロ上がると自分の所有地に着くのか見当もつかないが、これをやらないと土地の全景が把握できない。
さて、この山林の利用法だが、水が得られないので①「家は建てられない」。②「植林に130万円かかり、その上周辺の雑木処理も含めて5年以上必要」と。③「売れますか?」と聞いたら「植林よりもっと難しい。誰も山林を欲しがらないから」という返事。義父が何故そこを買い、それをなぜワイフにくれたのか疑問だが、当時薪炭業を手伝ったのは高校生のワイフだけだったからか。62年前のことだ。町役場から山林の詳しい図面を取り寄せたが、近隣土地との隣接関係も複雑で、買い増して利用することも売ることも不可能に近いと森林組合の人も役場の人も言っていた。
土地の場所も価値もおおよそ確認した。「3000坪の山林所有者」と言えばその内容がどうあれ羨望されるだろう。まぼろしの名誉を義父から頂いたのだ。財布の豊かさではなく心の豊かさを増す一助になる、と義父に感謝した。(自悠人)
写真 1.ガードレールの向こうが崖で所有地 2.電柱はある 3.ここが三叉路
夫の個展が終わるとすぐに母校、鳥取県立米子東高校の同窓会総会に東京米城会として参加した。会長さんがご都合悪く副会長の筆者にお役目が回ってきたのだ。事務局長から旅費を節約してくれと言われていたので行きは飛行機、帰りは10時間強の夜行バスにした。長時間の会合だった:1時―2時、校長先生&同窓会長さんと、筆者が提案しサポートを申し出ていた高校生留学とO留学基金の打ち合わせ、2時―3時、全国から参加の評議員会、4時―7時過ぎまでは当番期がアレンジした共同通信社の人の講演を含む長い総会と、6時間以上の会合だった。評議委員会では高校生留学とその支援について承認され、「高校生留学に対する熱い思いを語って!」と指名され、「心身の柔軟な高校生時代の留学はグローバル人材育成に役立つ。外国語の習得だけでなく、異文化理解&多文化共生、グローバル教育Etc.も学んで来る」とミニ・スピーチをした。総会の最後に万歳三唱のお役も回ってきた。講演者の結びの言葉を生かして、「社会の不平等に目を向け、意見を表明するよう頑張りましょう!」と右腕を振りあげた。万歳三唱の前のスピーチがどうあるべきか知らないし、あらゆる分野に進んだ卒業生の揃う総会に相応しいスピーチだったかどうか判らないが、皆さんニコニコ笑ってくれていたので、元気の良さが受けたのかな?この元気おばさんも、夜行バスには参った!全く眠れず草臥れ果てた。楽しくも有意義な総会参加だったが夜行バスは2度とご免です!(彩の渦輪)
写真1. 会場の米子全日空ホテル 2,3 評議委員会でのミニ・スピーチ
4.当番期の講演 5.高校時代の応援、フレーフレー 6.万歳三唱