あけぼの

アート、文化、健康、国際・教育、音楽、食・レシピ、日記、エッセイ、旅行記、学問

2か月毎のスリルとハッピネス

2013-07-30 09:29:26 | ブログ

Emimike20134_008 定期検査のため女子医大へ。空間的距離はちょっとあるが先生との心理的距離は近い。右腎臓の摘出手術をして頂いてから8か月目だ。大抵の人は手術後3か月に一回の検査、そのうち6か月に一回というように、検査が間遠になっていくそうだが、筆者は2か月ごとに諸検査をしていただく。2か月前はエコーで、「左腎臓への転移無し」とのご託宣。「やれやれでした」。今回は血液検査と尿検査だけだったが「左の腎機能良好」で問題は中性脂肪が多いことだけ。「まずまずでした」。主治医は患者の話をよく聞いてくださる仁術先生だ。筆者は手術後の8か月間に9回バックパックの旅をし、アメリカ永住権の更新も含めて10回渡航してきたが、今回はカリブ海に面した2つの国の話を聞いて頂き病気の話はちょっとだけ。「貴女はほんとに良く動くねえ。動きが激し過ぎて病気が居座れないよ!」。放射線も薬も全く無く、免疫力を高めることだけが筆者の治療法。「旅が薬」に賛成、奨励していただいてます。「楽しい日でした!」(彩の渦輪)


旅は、人生は、問題解決の総和:感傷旅行の成り行き~メキシコ~完

2013-07-24 13:22:51 | アート・文化

Dscn0395 Dscn0397

レフォルマ通りの独立記念塔    15年前と変わらず車渋滞の繁華街、ソナロッサ地区。だが車は新しくなった。
翌朝、レフォルマ通りで独立記念塔を見てから当時一人で散歩し、道端で蠍(さそり)入り琥珀を買ったりした懐かしいインスルヘンテス通りへ。繁華街ソナロッサをブラつき、人懐こい地元の人とお喋りを楽しみながら中央広場、ソカロまで足を伸ばした。メルカド(市場)も再訪、かつてスカートやショールを買った店があった!皺だらけになっていたおばちゃんとハグしあい、昼食は懐かしの寿司店、富士で。最後の日、空港で余ったペソを使い切ろうと果物屋の前をうろついていたら温顔の紳士が「May I help you?」。店内の女性に何か聞き、「私に10ペソ出させてください。気にされる金額じゃないですよ」と我々の所持金に上乗せし、豪華な盛り合わせフルーツを手渡した。アエロメヒコのパイロットさんは「家はカンクン、妻は泳いで私を待ってます。今度メキシコに来たら我が家に泊まってください。私の一族は男は皆操縦士に、女は医者になりました!」。若いパイロットさんの友好でメキシコの感傷旅行はハッピーエンド!

人生は問題解決、泣き笑い

 42歳でバック・パックの一人旅を始めた。事始めはインド、この旅で突発事件の洗礼を受けた。エジプト航空がボンベイ(今のムンバイ)で降ろすべきバッゲージをエジプトまで持って行ってしまい、ハンドバッグ1つでインド中12日間歩いた。チャオプラヤ川の濁流の真ん中で舟を揺さぶられ「金を出せ!」と脅された事件、ギザのピラミッドの裏手の無人砂漠で「金を出さねばここに置いて帰るぞ!」事件もあった。旅=人生。そのこころは「問題解決の総和」である。騙されたり命の危機にさらされたりは筆者の初期の旅では日常茶飯だった。嫌な体験は大抵忘れたが楽しい思い出はしっかり記憶のスクリーンに刻まれている。筆者はマイナス体験をプラスに生かすポジティヴ思考で生きて来た。今回の日本、メキシコ間では短期間に問題の波状攻撃を受けたが、終わり良ければ全てよし!完(彩の渦輪)


旅は、人生は、問題解決の総和:感傷旅行の筈が…~メキシコ~

2013-07-23 13:55:10 | アート・文化

無いと思うな災難と運

夫が15年前駐在していたメキシコ・シティーを再訪し、当時滞在したホテルに泊まり、その界隈を散策しよう、と今回は感傷旅行、だがメキシコ到着までに踏んだり蹴ったり事件が続きまくった。飛行機の切符購入時、座席指定を頼み忘れた。空港では時既に遅く、通路も窓際も無し。夫婦が離れた場所で人に挟まれ、特に筆者の両隣はひどい風邪で鼻や咽からひっきりなしに異様な音が。おまけに下痢になり12時間一睡も出来なかった。ただ忍耐のみ。疲れた!下痢腹ゆえ、ミネアポリス空港で荷物検査待ちの夫に出口を指さし「ここで待って!」と叫んで最寄りのトイレに駆け込んだが夫は別のトイレ脇で待ったのだった。残り時間僅か、夫は既に搭乗ゲートだと思い走った。空港内の電車に乗りAゲートの外れまで。夫は来ていなかった。焦り、空港内放送をしてもらったが英語ではピンとこないだろうとマイクを借りて日本語で呼び出し。だが現れない。遂に筆者は空港内を国内線搭乗口から国際線のセキュリティーに向けて逆戻り。重いリュックを背負って。長いA通路が終わったところで息急き切って走っている夫に会え、2人で走った。滑り込みセーフ!ドサクサにもかかわらず予定通り着いたシンシナティで、迎えに来ている筈のスーザンがいない。家に電話したら夫君が「彼女は迷ってインディアナ近くをぐるぐる運転している」と。40年この地に住んでいる彼女が迷うなんて不思議だったがタクシーで宿に行くことも出来ず、1時間以上空港で待ったのだった。一時後退!さあ、メキシコへ。アトランタでフライトが3時間遅れた。「天候不良」により、というデルタの機内放送だったが窓外は快晴、メキシコ・シティーにも3時間の遅れで到着、夜だった。市内中心部までタクシーで待望のホテル・パリオリへ。夜9時のチェックイン、それからが問題だった。通常の時間帯には居る受付がその夜は英語を話さないガードマンだけ、その上クレジットカード読み取り機が故障だと言う。急いで来たので充分に換金していない。「明日換金して現金で払う」と言っても「駄目です!」、「もう他のホテルに行く!」にも「駄目です!」と。最悪だった!1時間半の押し問答後やっと機械が直り入室できた。バー付きの巨大な居間、両端に寝室と浴室が2つずつ、と、このホテル最高の部屋が準備されていた。雨のち晴れ!続く(彩の渦輪)


常に勝利に向かって ~キューバ~

2013-07-10 14:01:30 | アート・文化

Cuba_che_smiling_dscf0159 スペイン植民地時代そのままの古い街、世界遺産、トリニダーを訪問したが、1819世紀のコロニアル建築が佇み、時が止まったように静かな街だった。チェ・ゲバラの霊廟のあるサンタクララは特別美しい街だった。革命戦争指揮官姿のチェの台座には「常に勝利に向かって」とスペイン語で彼の名言が。ハバナのチェ・ゲバラ邸も訪れたが、質素な建物に質素なベッド。アルゼンチンはコルドバ郊外の裕福な家庭に育ち、医者となったチェ。フィデルと出会い、キューバ革命には軍医、指揮官として参加、体制打倒後も要職に甘んぜず、地位に執着せず、未開放地区の人々を幸せにしたいとコンゴに出向き革命失敗、次にはボリビアに行き、政府軍との戦闘で捕虜となり、翌日銃殺された。39歳の若さだった。このゲバラ邸には彼の使った治療用具やボリビア潜入地の服装等の写真が展示されているが、その優しい顔と目が彼の信念、自信、頭脳、人間愛、行動力等の人間性で惹きつける。人民愛からチェは兵士として死した。筆者はボリビアやコルドバ市の彼の実家等、チェに因む多くの地を訪問したが、コルドバのバス停前の埃っぽい店で買ったTシャツ、彼の澄んだ目と「Hasta la victoria siempre」の文字の踊るTシャツは筆者の宝だ。限りなく懐かしさ人間らしさを感じた国を去る日、後ろ髪を引かれて。完(彩の渦輪)


椰子聳えサルサ流れる、チェの愛した国 ~キューバ共和国~

2013-07-07 10:03:05 | アート・文化

Cuba_dscf0065_2 Cuba_trinidad_nodscf0075

 火炎樹の下、おじさまサルサ楽団      トリニダーの16世紀風公園

 長らくBlogをご無沙汰したが、リュックを背負った回遊魚、遂にキューバにやって来た。地球千鳥足の旅も既に100か国以上、だが入国前にこんなに胸がときめいた国はない。緑濃く、椰子は見上げ得ないほど高く聳え、火炎樹が燃え、黄色い藤の花房が無数に垂れ下がる大木や夾竹桃が彩り競う。海は遠浅でエメラルドよりも淡い薄緑色、岸辺にもごみ一つ無く桜貝が転がる。チェの愛した国はどこまでも美しい国だった。ヘミングウェイやヴィクトル・ユーゴも愛して住んだ国。街角で店先でおじさんおばさんの楽団がサルサを演奏、つい踊り出したくなる。ヘミングウェイが愛したダイキリやモヒータを飲んで踊ろう。日本とは外交歴84年、「私、ハポネサ(日本人)」と言えばみなさん微笑む。だが革命後55年目、美しいビルの内部や窓が破壊されたまま一部に人が住んでいるのは痛々しい。国にお金がないのか。産業は砂糖や葉巻、観光にも力を入れ出した。だが民衆の暮らしは?

トイレの台座なく、紙も少ない、でも、ごみも無いのだ! 

紙不足でメモ用紙は印刷物の裏面使用、マーケットに行ってみても物資が少ない。ホテルや食堂でトイレの便器に台座が無くてボウルだけ、というのが多々あり不便だったが、一旦壊れたら修理が難しいようだ。だが日本だって私の子どもの頃はもっとひどかった。それより教育費無料、医療費無料等、良い面を見なくちゃ!平均寿命は高く日本と同じ。バラデロの海は世界一美しい。国中が安全で清潔で人々が人懐こい。民宿(カサ)では多くのホテルよりご馳走が出たがこの国では宿泊費と待遇が比例しないのでカサがお勧めだ。続く(彩の渦輪)