畑が多かった自宅の近所に建て売りが建ち続ける。農家の相続税対策のためか。買うのは幼児連れの若夫婦が多い。彼女らは何千万のローンを抱えて大変だと思うが、そこには希望があり夢がある。若さも味方する。
一方、弧老人の多くは体力の衰えを気にしてか「生きる気力もなくなった」と嘆く。日々、生活することの面倒も手伝っているのだろう。筆者も含めて、翌朝目が覚めるかどうか案じることもある。希望がないので惰性で生きるだけの存在になりがちだ。たまにはメリハリをつけて豪華な食事や旅行などを楽しめばよいのに、資産もあり、お金はばらまくほどあるだろうに、チマチマ暮らしが板についてか、羽目は外せない者が多い。趣味もお茶を濁す程度になりがちだ。さりとて死にたくはなく、近所の弧老など、連れ合いのいる人を見て羨望したりする。その子どもたちが心配してか、機嫌をとってか、孫にスカイプ(電話)などかけさしている。真意は「早くくたばって欲しい」のではないか、などと邪推するのだが。余談だが弧老人を引き取ったら夫婦仲まで悪くなった知人がいる。弧老人との同居だが、老人に家もお金もある一方、子どもは仕事や収入が不安定、というケースが多いようだ。若者はローンに追われたり、自分の家族が第一で年寄りに思いを致す余裕がない。昔と異なり、忍耐を美徳とする時代ではない。子どもが都会でバリバリ働いていてそれなりの資産があれば、親を近所に住まわせても同居はしない。片親になったら尚のこと、精々老人ホームに送りだすだけだ。
老いた親としては孤独のつらさに耐えて動けるだけ動き、一人で生きる努力をし、頑張るしかないだろう。そうして自分の貴重な貯金はどんどん遣いつつ天命を待つことだ。親が亡くなったら子どもたちは家屋敷を競売に付して兄弟姉妹で分割してチョン。お墓の守り?そんなものは2~3年続けばよい方だろう。これからは「先祖代々」、「XX家」「墓守」等は死語となり、「家族は一代」という時代が来るのではなかろうか。寂しいがこれが時代の流れというものか。もし残す遺産があるならば己の意思で社会に還元して世のためになることだ。誰でも弧老人となる。お互い覚悟しようぜ!(自悠人)