この夏ホンジュラスの首都、テグシガルパの郊外、ピカッチョの丘に出かけた。街が一望できる国立公園で子ども連れの家族が多く訪れる場所だ。ここで2組の女子高校生集団が農作業をしていた。一組は雑草抜きをし、一組は鍬で耕していた。雑草抜きグループでは一人がボランテア社会参加の意義を語ってくれた。同校の生徒は「グッド・ファミリー出身だ」と微笑んだのが印象的だった。鍬グループは特に人なつこく、日本人と名乗ったら眼を輝かせたのでちょっと仲間入り。休憩には質問攻めでこちらも質問しお喋りがはずんだ。たいていの生徒がきれいな英語を話した。農作業の奉仕活動は学習の一環で必須、年間8時間行わないと卒業出来ないという。私立高でも厳しくボランテア制度が確立されていた。多くの生徒とアドレスを交換した。帰宅したら既に2人からメールが来ており、以後メール交換が続いている。続く(彩の渦輪)
2010年の初秋のある朝、20年の生活に区切りをつけ日本に帰国するためオハイオ川を渡った。オハイオ州シンシナティからケンタッキー州へ、シンシナティ・ノーザンケンタッキー空港に向かうために。 1990年1月、夫、自悠人が、6月に妻、彩の渦輪がこの空港に降り立ち、シンシナティに住みついてから、あっという間の20年だった。自悠人は日本の中企業の支社代表として58歳で赴任、妻はその時52歳、着いた翌日ザヴィエル大学、大学院の門をたたき修士課程を始めた。日本で大学を出てから30年が経っていた。研究生を始めるとほぼ時を同じくして同大学で日本語講師となり、1991年には家を購入し、「地域住民、駐在員妻、大学院生、大学講師」の4役を楽しんだ。夫は3年後現地で停年退職したがその後メキシコ駐在代表となり、妻はシンシナティに残り、夫婦ともシンシナティとメキシコ・シティーの往復で一層多忙となったが楽しさに幅と深みが加わった。夫はその駐在の後オハイオに戻り、シンシナティ・アート・クラブの会員となり油絵を始めた。妻は55歳で修士号取得、暫くは教えるだけだったが58歳で博士課程を始め60歳で教育学博士号取得、朝日新聞衛星版に還暦博士号と紹介された。衛星版はメキシコも同じ内容で、メキシコ駐在中の夫は新聞を開いて、「あ、我が奥さんが載っている!」と微笑んだ。博士号取得後の呼称は講師ではなく助教授、後に准教授となる。日本文化を教えるに当たりありとあらゆる分野に挑戦し俳句を教え、プロも教室に招待、黒沢映画、アニメ、合気道、茶道、生け花は勿論教えたが、大学の音楽ホールに琴の奏者を呼び、自分もその日ピアノで「六段」を演奏したりと、シンシナティの多くの人々や学生たちと文化や心の交流をした。
今、愛車、ニッサン・アルティマでオハイオ川を渡る。これが愛車で渡る最後だ。夫や親戚、日本からの友人や客等を迎える度に渡り、ここからの海外旅行に出る度に渡ったオハイオ川。今日が最後だ。空港に来る以外は自宅と大学往復だけだったこの車、日産の2台目でマイリッジが非常に少なく交通事故を起こさず、で新車同様ピカピカだ。先日結婚式に参列したScottが買ってくれたが、結婚式直前に持ち主の名前を変える手続きをした。ブログに何度か登場した教え子で、アイルランドへの新婚旅行から前日帰国したばかりのScott夫妻が空港に見送りに来てくれることになっており、その際愛車とキーを渡すのだ。オハイオ川は水面が朝日できらきらと輝いていた。左側にはサスペンジョン・ブリッジと、その下にかつて博士号記念パーティーを行った船のレストラン、マイクフィンクが静かに浮かび、右側には岸辺に小舟が繋がれていた。多くの思い出が走馬灯のように脳裏をよぎった。空港にはすでにScottと新婦、Deenaさんが来ていた。アイルランドの新婚旅行について聞き、車のキーを手渡してからチェックイン。別れのハグをしあい、スコット夫妻に見送られてセキュリティーへ。さよならマイカー、さよならシンシナティ!(彩の渦輪)
鹿をはじめとしてアライグマやポッサム、リスなどの小動物や各種の小鳥たちに囲まれた林の中の家に18年住み、その前のタウンハウスも入れて20年暮らした。冬から春にかけ裸の木々が萌黄色に変わり、緑の初夏には木々が生い茂って昼間も薄暗いほどだった。蛍が舞う。スカーレトやクリムズンに林が燃えたと思うと次々と木枯らしに葉っぱがもぎ取られカサカサ地面を走りやがて白い粉雪に見舞われる。外は寒々だが室内は暖炉も焚けるし空調で暖かい。時には雪見酒も楽しめる。バルコニーでもワインも楽しめる春夏秋冬。これ以上望むものはない異文化の暮らしだった。変化ある毎日は何ものにも替え難い刺激と感動の連続であった。多くの人との関わり繋がりで得られたものは数え切れない。年輩者として海外に住んだということの意義を十二分に体得し、貴重な歳月を過ごした。家では40人以上の大型パーティも毎年やって日本人の心意気を示した。旅もここを起点に中南米に17回、ヨーロッパに5回、USはハワイ、アラスカを含む44州にも及ぶ個人行動で脳の活性化に役立った。シンシナティに帰るときは空港からタクシーや自家用車で、たまにワイフの出迎えの車で我が家へ。オープナーで車庫を開け、やれやれ着いたとくつろげる家があったからだ。日本との往復は数えることが出来ないし、横浜に行くぐらいの距離感覚しかなかった。
快適な暮らしもアメリカ20年を境に引き上げることにした。肉体的な老化が意識下にあった。時として腰痛や膝痛に悩まされ、掴んだ筈のものを落し、平衡感覚の減退、白内症など。直接の契機は鼻血が連続して4日間出たこと。救急病院、耳鼻科と行き鼻内血管を焼く手術で止まった。USで家屋を買うのは簡単だが売るのは難しい。丁度、リーマンショックの不景気にぶつかり約1年売れなかった。不動産エージェントを替え価額をドーンと下げたら1.5カ月で売れた。何事も決断と運とタイミングに支配される。もし売れなかったら更に値下げするよりもワイフが学び、教えたゼイヴィア大学に寄贈しようと思っていた。家財は全部癌の組織に寄贈し、中型トラックで10時から4時まで往復してくれた。マイカー2台は良い人に買ってもらった。
思うに還暦から日本にいて何がやれたのだろうか。刺激や変化の少ない、平均的な老人の暮らしではなかったか。おカネは残ったであろうがまとめて使うことも出来ず平凡な日常ではなかったか。預金が4、5000万円増えたとて心情的収穫は今ほど無かっただろう。子孫に残すのはスポイルするだけ。夫婦で20年、異文化で暮らした意義の深さを改めて思った。人生は決断の総和だと思う。(自悠人)
サンタ・アナでバスを待っている若い男性にホテルまでの行き方を聞いた。重たそうな荷物を持っていたので夫が抱えた。ちょっと戸惑った顔をしていたが着いてから言った。「それは母のなんです」。彼は母の大事な商売用アイスクリームがとけることを気にしつつもバス乗車を中止し、暑いさなか我々を案内してくれたのだ。その夜彼を食事に招待した。好青年ルイース君は若き日アメリカに渡ったがアメリカ兵としてイラクに参戦、死線をさまよい、母恋しさに母国に戻り就職、働きつつ歯科医を目指して猛勉強中だった。翌朝タスマル遺跡に向かう私たちを見送りに来て長距離バス乗り場まで案内してくれたのだった。タスマル遺跡はグアテマラに近いチャルチュアパ市にあるマヤ文明遺跡の一つで1940~50年にかけ発掘され、日本の金沢大学もその調査、復元に精力を注いでいるようだ。
青年海外協力隊で1974年にこの国にきて柔道を強化指導し、現地女性と結婚し、首都で小さなホテルを経営しているHさんに出会った。彼の話によると、エルサルバドル内戦が1980年に始まり1992年の和平合意まで12年間に及び、大虐殺もあり、死者7.5万人という悲惨な時期が続き、大使館員や大多数の日本人は帰国したが彼は残り、閉鎖された大使館の臨時大使代行となった。日本人旅行者を救出したりし「良い大使だと言われた」と回想した。療養中にも関わらずビールを飲んで暮らす62歳のHさんに「人生これからよ。もう一花咲かせて!」と励ました。
地球千鳥足の筆者の旅の最大目的は人々との触れ合いである。世界遺産より人間遺産に触れ心の交流を心がける。グローバル時代の今、政府もNGOも企業も国際親善に努めているが一介の旅行者も国際交流に貢献できる、との思いをいつも忘れず交流する。(彩の渦輪)
忙中閑を生み出して旅に出かける筆者は通常旅先の予習をする時間がなく、「地球の歩き方」を飛行機の中で読む程度の準備が多い。この8月気まぐれに選んで出かけたエルサルバドルだったが、会う人々のあまりにも親日的な態度に驚いた。特に「一緒に写真を撮りたい」という人たちが多く、女優さん気分を味わった。首都のサンマルティン広場で握手を求めてきた中年女性、何度も角を曲がってバス停まで道案内してくれたおじさん、バスの乗客は我々夫婦が降りた先の案内係を相談し、若い女性が喜んで引き受けて目的地まで連れていってくれた。タクシーの安い国だが人々との会話と友好が楽しくて市内バスの移動を満喫した。平生三郎公園(彼の寄付で出来た公園)では日本人だと知り入場無料にしてくれ、公園内の博物館では一緒に写真を撮りたいと女性たちが筆者を取り囲んだ。首都から高速バスで1時間のサンタ・アナではカテドラルの近くの富裕な家族に招じ入れられ美味しいコーヒーをご馳走になったが、知識人夫婦が「日本の無償援助には感謝している」と語ってくれた。セロヴェルデ山の頂上付近では数組の観光客の写真の真ん中に立たされたが、その中の一人が「日本企業に勤めているけどその企業哲学は素晴らしい」と語った。
帰国後参考文献を読み、この国と日本は長く深い関係があったことを知った。この国は火山国であるが、日本と多くの類似点があり、中米の日本と称される。 小国で人口密度が高く山も多く資源は少なく地震、風水害に脆弱なので自然災害の支援も行ってきたという。また、エルサルバドル国際空港は日本の資金、技術、人材援助により3年がかりで1980年に完成した、中米最大の近代的な空港である。続く(彩の渦輪)