紅葉が散ってしまった後の家の周囲はスケルトンと呼ばれる裸木の林立だ。枯れ木群は枝を上空に向けて花が咲いたように手を広げ幾重にも重なって経つ。11月中旬のある早朝、朝焼けでシェルピンクの空を背景にこのスケルトン群が立ち、その上空、筆者の目の前方に珍しい形の帯状の雲が流れるようにスケルトンの上にかかっている。さながら白い天の川だ。二羽の雁が白い天の川を反対方向から上手に横切り、天空へ消えた。織姫と彦星が会えたようだった。朝から情調豊かな風景を見せてくれる我が家の窓外、18年住んだこの家のクロージングも近い。私の第二の故郷は間違いなくシンシナティ、Ohioだ。ちょっと我が人生、どこでどう過ごしたか振り返ってみよう。
鳥取県の田舎:18年間
京都(学生時代)4年間
西宮(リサーチャー時代)1.5年間
Cincinnati:約19.5年間
東京:約28年(Cincinnati と東京は行き来したので重なるが)
Cincinnatiを第二の故郷と呼びたいのは滞在の長さからではない。生活密度の濃さゆえだ。1990年、52歳でこの地に来て運転免許証を取得した。行動範囲がぐんと拡がった。日本では運転しない主義だったのでアメリカに来なければ今も運転していない。PCを52歳から操ったが、日本にいたらやっていないだろう。機械嫌いだったから。アメリカに来た翌日大学院の門を叩いた。私立ザヴィエル大学で修士課程を学び修士号取得、州立シンシナティ大学で博士号を取得したが、その過程でコンピューター操作は必須だった。手書き論文など受け取ってもらえない時代がもう1991年に来ていた。特にXavier University(ザヴィエル大学)は思い出が深い。ここでの修士課程の方が、Cincinnati大学の博士課程よりもある意味大変だった。日本から来たばかりで、言葉の壁が大きく、年齢の壁もあり、更年期障害と闘いつつの論文書きは大変だった。その上この大学に日本語講座が無かったので偉い人たちに働きかけて日本語プログラムを開いたのだった。大学院生をやりながら日本語、日本文化の責任者となり、日本語部門は発展し続け、もう一人講師を雇ってもらったが、ここで6年以上教えた。シンシナティでは、4役つまり駐在員の妻、大学員研究生、日本語講師(から助教授へ)、地域住民、として多くの人々と交わった。43人という大規模な参加者で、日本から実演者も招待し、「多文化音楽、アートと多文化食パーティー」も5回行った。日々のホーム・パーティーは数え切れない。教職がザヴィエル大学からシンシナティ大学に移ってからは日本文化の講座で多くのイヴェントや実演、映画,音楽演奏、等を続けたが、学生だけでなく地域にも呼びかけて日本文化のプロモーションを図った。
かくのごとくシンシナティは筆者にとっては「汗と微笑と虹色の涙の狂詩曲」の舞台なのである。新緑や紅葉が去り、木々がスケルトンになろうとも、この家を去ろうとも、忘れることが出来ようか。(彩の渦輪)