あけぼの

アート、文化、健康、国際・教育、音楽、食・レシピ、日記、エッセイ、旅行記、学問

我が家のコーヒー物語

2012-08-30 08:39:21 | アート・文化

Aug30_2012_004 我が家が本格的にコーヒーを飲みだしたのはアメリカに住むようになった1990年、筆者58歳からである。それまでは毎朝飲んでいてもインスタント併用だったし今のようにマグで2杯も飲まなかった。一時期、コーヒーはガンの発生率を高めると言われていたので、飲む種類や量もほどほどだった。その後癌要因の疑いは晴れたようだ。もともと日本茶は嫌いだったので仏さんになったらお供えは「水でよい」と伝えておいた。いつもコーヒーには砂糖を入れずクリーマだけだった。アメリカでは仕事中や出先でのコーヒー提供は普通だし、暇な時間にもよく飲んだ。場合によっては飲み過ぎて口の中は苦く胃が苦しく頭痛までする日もあった。そんな経験を経て朝のコーヒーはせいぜい3杯までとした。

筆者夫婦は旅が好きだ。行く国々で帰国時コーヒーを買うようになった。有名どころのコスタリカ、エクアドル、コロンビア、ブラジルなど、中南米諸国のコーヒーは適度に苦味や刺激要素があって、食欲増進、精神も安定と高揚させてくれるようで、味が判るようになり好みも出来た。諸外国訪問の都度、多種多様なコーヒーを買って来ては飲み続けた。コロンビアで聞いたことだが、東南アジア諸国の高地でコーヒー栽培が盛んになり、輸出が不振になったそうだ。確かに我々は中南米のみならず、ミャンマーのマンダレー郊外やフィリピンのモンテンルパでコーヒーを買ってきた。結構美味しかった。ヨーロッパはフィンランドやラトヴィアでも買い、最近はスイスでも買ってきて今飲んでいる。旅はバックパッカーゆえ荷物の嵩張りを防ぐため、コーヒーの包装はアルミ箔のラミネート内装で封印された袋を選ぶ。開口部にアルミ板が折り曲げてあり、その都度封印するものがいつまでも美味しいし高級感もある。形態はコーヒー豆のまま、荒挽き、微粉挽き等多様だが、濾紙の種類を遣い分けして飲用する。珍しい空き缶や空き袋は残している。

コーヒーの好みや飲み方にこだわるのも良かろうが、世界各国のものを飲むのも楽しい嗜好だ。夫婦合わせて154歳まで大病せず何とか無事暮して来たのもコーヒーから元気をもらったのではないかと思うようになった。近々親しい友人を招き、旅の写真のパワーポイントを観賞してもらいつつ数種のコーヒーを楽しんで頂く「自悠人カフェ」を企画している。読者のご参加歓迎だ。自悠人(Aug. 29, 2012


母がくれたジューキ・ミシンで縫いもの

2012-08-28 16:19:48 | アート・文化

Jukiaug292012_002 ご存知ですか?ジューキ・ミシンを。結婚式の前に母が私に買い、鳥取県から東京に送ってきたこのミシンは変わっている。フックが3つぐらいあり、上糸はぐるぐるとフックを行き帰りさせてセットし、下糸を引きあげ準備完了。足踏み式から卓上式へと20年ほど前に簡単なサーヴィスを受けたが機械部分は元のまま、51歳になるミシンだ。筆者の脳味噌同様時々プツンと糸が切れ、糸通しが大変だが、筆者同様まだよく動く。

二階の窓から眼下に拡がるのは矢川の原っぱだ。この風景を見ながら30年前第一著作「Still Waters Run Deep(音無し川は水深し)」を書いた。著作テーブルにもなったミシン台に久方ぶりに座れたのだ。筆者は旅好き、縫い物も好き。留守が多く、この場所に座る時間がなかったが、古着が捨てきれずリフォーム用に押入れで目白押しとなっていた。今日はパンツに挑戦だ。去年インドはコーラムで買ってきたこのパンツ。キンキラキンの玉の列をほどいたら220ルピーと値段がついていた。安かったがなんとも軽い絹のようなコットン生地だ。最近流行の、ひらひら・すけすけのウスバカゲロウ衣装には及ばないが、秋の虫、コオロギの足のように飛び跳ねられそうだ。ついでに娘が幼稚園の時毎日持った手提げ袋の紐を娘の古いスカートのハギレで修繕した。母の日にハンドバッグをくれたお返しにこの再生幼稚園バッグをあげたらどんな顔するかだろうか?海外土産のバッグも中々受け取ってもらえないけれど。

リフォームは時代に合いませんネ。特に今の時期には涼しげな衣料が一掃大バーゲン、ファッショナブル薄羽蜻蛉ブラウスやスカートが1000円程度で売られている。リフォームなんて時間を考えたら割に合わないか?でも創造の喜びはありますよ。

矢川の田園風景を見下ろしながら母のくれたミシンを使う。難病手術後の娘のことを考えながら。娘には50年以上持ち堪えるミシンを買ってあげなかったなあ。娘のミシンをJukiの最新ものに買い変えてあげようか。そして娘にも結婚後50年以上生きてもらわなくちゃ!(彩の渦輪)


酷暑、残暑を愚痴らぬ傘寿 

2012-08-27 10:54:40 | まち歩き

Aug12_001 Aug12_003 傘寿ともなれば過去と邂逅したくなるものか。平々凡々の市井の筆者だが、現在、これといった病気もなく不自由なく暮らせる「幸せ」を感謝せねばならないと自覚している。毎日「暑い」などと愚痴っては罰が当たる。70年前の子どもの頃に返ったつもりでランニングに短パン、自転車でほぼ毎日2回、国立、府中間を往復する。距離にして12kmだ。絵を描いたりしてリラックスする。

子どもの頃はヤスと水鏡を持って裏のねじ川に魚獲りに行ったり、竿の端に蜘蛛の「イギ」(糸)を張って蝉捕りをしたりが夏休みの日課だった。獲った小魚はおやじが丸焼きにして食べていた。今から思えば唯一のカルシューム源だったのだろう。真っ赤になるほど足を「ぶと」(ぶよ)に刺されたが平気だった。それだけ夢中になって捕り物に集中したのだろう。お盆になると「生き物を獲ってはいかん!」とおやじに止められた。お盆は仏さまが来ている日で悲しまれるからだと。お盆も過ぎ20日ともなると朝夕の涼風と共に蝉が「ミーン・ミ-ン」から「ツクツク・ボ~シ」の声に代わり、秋が偲び寄って来て日中以外は涼味を覚えた。油蝉からみんみん蝉、そしてツクツク法師への移行で季節は忘れずにやって来る。夜から朝にかけて、秋の虫どもの声も聞こえるようになる。

地球温暖化と言っても真夏の気温は変わらないと思う。より暑く感ずるのは加齢とともに高温環境に耐える体力と精神力が減って来ているからではなかろうか。また情報過多で「暑い、暑い」と囃したてられるせいもあるだろう。昭和20815日の終戦記念日、あの日は暑かった。中学2年生だった。それから67回過ごした盛夏。酷暑、残暑、涼夏等、その時々の居住環境や体調、精神状態で暑さの感じ方も違っていたようだ。多忙で目いっぱい行動していた時期には「夏は暑いもの」と割り切っていた。それ以上に考えることがあったのだろうか、暑いと思った記憶が残っていない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」だ。自分を取り巻く環境が暑さの所以ではなかろうか。(自悠人)


アルプスの少女アヤコの口笛二重奏~リヒテンシュタイン侯国~

2012-08-26 13:12:16 | アート・文化

T_053_2 可愛い花を摘み飛び跳ねたマルブンのなだらかな山  アルプスで花摘む皺少女

 ありのままの社会にすぐに溶けこむ筆者にはリヒテンシュタイン(以下L)はとりわけ楽しい国だった。観光客の一人もいないハイランド、早朝のマルブンで、「アルプスの少女」アヤコは、なだらかな山を駆け巡りながら色とりどりの高山の花を摘み、可愛い花束を手に下界を見下ろしつつ「ヤッホー」と叫び、「ヤッホー」と答える山彦との会話を楽しんだ。アルプスの少女ハイジがスイスはアルムの大自然を駆け巡ったように、皺少女アヤコはLの高地マルブンで心ゆくまでアルプス劇場の主役を演じた。夕方にもまたやって来て、夕陽を浴び真っ赤に染まった山間で乳牛やかわいい大角の山羊を見た。マルブンは丘のように優しい山が折り重なるスキー場だが夏は人が少ない。日本の皇太子殿下がこの国の侯家から招かれてスキーをなさった山だ。誰も乗っていないリフトが揺れていた。乗って来たバスは少女アヤコが戻るまで待っていた。筆者は今マルブンの花のカラフルな標本を眺めながらこれを書いている。

お伽の国の城主様 立憲君主国Lはスイスと同様中立国、スイスから入国すると検問がなく、スイスとの関税協定によりスイス・フランを使用する。公用語はドイツ語、首都はファドゥーッだ。我々はスイスとの国境の街、サルガンスから郵便バスでファドゥーツに来た。チューリッヒで友だちになった一女性はL出身、結婚してスイスへ。「スイスは物価が高いからファドゥーツへ買い物に行く」と言っていた。ファドゥーツで親切にしてくれた一女性は「スイスから嫁いで来た」と語った。両国は密接な関係がある。税金は安く失業率は低いと聞いた。ファドゥーツ城は下の街から見ると山の頂上に、まるでお伽の国のお城のように聳え立ち、誰でもそこまで登ってみたくなる。よいしょ、よいしょ、と自分を励まし、休み休み登ったがそれでも友だちになったドイツ人家族より早くお城に着いた。何とこのお城は筆者が生まれた年に建立、オーストリアのリヒテンシュタイン家12代目、フランツ・ヨーゼフII世侯(先代)がウイーンからファドゥーツのこの城へと住いを移したのだった。筆者と同い年のこのお城の先代は既に亡く、現在はその息子の侯爵ご一家がお住まいだ。侯爵家は国家元首、政治力は大きい。T_051_2

ライン川を見下ろし口笛二重奏 首都ファドゥーツと高地マルブンの中間に位置するトリーゼンベルクは何という長閑な村だろう。海抜7002000m日当たりのいい斜面や坂の多い村、東スイス・アルプスからライン峡谷を見はるかすと圧倒される眺望だ。中心部は海抜900mこの村の象徴オニオン・タワーがすぐに眼に飛び込んでくる。夜はとびきり神秘的なオニオン・タワーは天辺にユニークで巨大な玉葱の尖塔が載っている聖ジョーゼフ教会の時計塔だ。玉葱の色は上品な青銅色、内部もとても美しい。筆者夫婦はその向かい側のホテル・クルムに泊まった。夜中に目覚めたらそのオニオン・タワーが筆者の眼前、見上げる高さで神秘な藍色に輝いていた。真夜中の幻想的オニオン劇場に魂を奪われ眠ることあたわず、地元産Bioワインで乾杯した。坂道ばかりのトリーゼンベルグぶらぶら歩きは地球千鳥足夫婦、毒舌夫と頑固妻の意気を高揚させ陽気にした。意見衝突の多い「異文化」夫婦もここでは仲良し、アルプスの少女ハイジやペーターのように口笛の合奏を楽しんだ。歩き疲れるとカフェーに入り、そこのテラスからコーヒー片手にライン川を見下ろし、「絶景かな!」と口々に叫んだ。騙され事件も問題も無く、「ヤッホー」と「絶景かな!」を連発した国だった。(彩の渦輪)


教員免許状更新講座の講師を務めて

2012-08-09 13:57:38 | アート・文化

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Aug3_013 上:セミナーハウスの建物。下:受講の先生たちと。

八王子の大学セミナーハウス、教員免許更新センターで講師を務めた。受講者は35歳、45歳、55歳の教員、つまり学校の先生方、10年に1度の免許更新のための受講だ。住居が近い先生方は通えるが日本全国から集まってこられるので3泊4日の合宿受講が結構多く全員で70人ほどだった。筆者の担当は「異文化理解と共生の教育」と「グローバル教育者に変身!」だった。筆者はアメリカ風に参加型やグループ学習等、意見表明や討論を奨励した。参加型の長所、短所を述べ、意見はトピックが逃げてからでも(遅れても)良い、とも始めに伝えておき、意見表明を待った。参加型では講師からだけでなく他の参加者からも学べるし、内気な人も声を出すことによってプログラムに参画した満足感が得られる。地球市という運命共同体において否応なしに解決を迫られる多文化共生への難問は知識の一方通行では解決不可能だからだ。次の10年のため皆さん真剣で素晴らしいクラスだった。

聞くことに慣らされ、意見表明の訓練は受けて来なかった世代が殆んどで、授業中「声を出さねば……」とプレッシャーを感じて辛かったという感想もあったが、皆さん勇気をだして声を出してくださるようになり、またグループ学習は大変活発でとてもよかった。名残を惜しんでくださる先生方が結構あり、閉校後おしゃべりや写真撮影を楽しんだ。(彩の渦輪)