「石見焼」
Description / 特徴・産地
石見焼とは?
石見焼(いわみやき)は、島根県江津市周辺で作られている陶器です。
石見焼の特徴は、吸水性が低く強固で、塩分や酸・アルカリに強い素地(そじ)です。飯銅(はんどう)と称される大きな水甕(みずがめ)が有名で、そのほかにも茶器や食器などの小振りな生活用品が多く作られ、酸や塩に強いため、梅干しやらっきょう漬けなどの保存にも適しています。
石見焼には、磁器に近い地元で採れる良質の粘土が使われています。鉄分を含む深い茶褐色の「来待釉薬(きまちゆうやく)」が塗られた製品に加え、アルカリ成分を含んだ「温泉津石(ゆのついし)」を使った「透明釉薬(とうめいゆうやく)」の製品も主力となっています。透明釉薬を塗り、完全燃焼した炎で「酸化焼成(さんかしょうせい)」にて焼き上げると黄土色の製品が完成し、不完全燃焼の炎で「還元焼成(かんげんしょうせい)」にて焼き上げた場合には青色の製品が完成します。
History / 歴史
1592年(文禄元年)~1610年(慶長15年)の「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」に出兵した武士が帰国する際に、朝鮮の陶工(とうこう)である「李郎子(りろうし)」を連れ帰り、現在の島根県浜田市や鹿足郡柿木村(かのあしぐんかきのきむら)で陶器を作らせたことが、石見焼(いわみやき)の始まりと言われています。
現在の島根県江津市において、1765年(明和2年)には本格的な製陶法が学び伝えられ、「片口(かたくち)」や「徳利(とくり)」などの小物陶器の製作技術は、周防国(すおうのくに)の岩国藩から招かれた陶工・入江六郎によって受け継がれました。水甕(みずがめ)などの大物陶器の製作技法は、1780年代(天明年間)に備前国(びぜんのくに)の陶工が島根県江津市に来訪し伝授したと伝えられています。
江戸時代末期になると、浜田藩の家老により、製陶業が殖産事業(しょくさんじぎょう)として奨励されたため、島根県江津市一帯は、水甕を中心とする陶器生産の一大拠点として発展を遂げました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/iwamiyaki/ より
暮らしの中で育まれた石見焼の心を、伝統の窯で焼き続ける
古くから登り窯が築かれ、江戸時代には“大甕(おおがめ)”の産地として知られた石見地方。古来からの大はんどうと呼ばれる大甕や小ぶりの水甕を作りながら、時代の移り変わりや人々の生活の変化に対応して、日用陶器を豊富に製造してきた。
大甕の需要が減った今も、大はんどう(大甕)の技法を後に残すために伝統的技法「しの作り」で定期的に大甕を作り、石見焼の心を焼き続ける。
主に藍染めに使用された超大型甕の“大はんどう”
200kgの粘土を使って、形にするまで3人がかりで約1カ月もかかる。その技法は「しの作り」と呼ばれる。腕より太い紐状にした粘土を肩に担ぐようにして、ろくろの上に積み上げ、2人の引き手が綱引きの要領で、息を合わせてろくろの綱を引っ張り、ゆっくりまわしながら、はんどうの底、腰、肩と7~8回繰り返して完成させる。
その独特の製造技法を、現在も伝える数少ない伝統工芸士の嶋田春男(しまだはるお)さんにお話しを伺がった。
「そら、つらいこともあったけど、今はもう忘れてしもたわな。」
古くから、焼き物が盛んに作られてきた江津市近郊では、明治時代に“大はんどう”が量産され、最盛期には100軒を越える窯があった。しかし、昭和30年代には、プラスチック容器と上水道の普及が進み、需要が激減してしまった。“大はんどう”は日常生活では、なかなか見られなくなってしまった。
当時を振り返って、嶋田さんはこう語ってくれた。
「石見焼といえば、大はんどうが代名詞やったんですよ。そりゃ明治から昭和の敗戦くらいまでは、よう売れましたよ。まず当時の生活必需品でしたからね。わしの父親が窯を開けたんが、昭和10年ですから、修行時代を入れて、もう60年以上も石見焼に携わっています。その当時は、とにかく売れて売れて大忙しだったもんです。」
「でも昭和30年代になって、高度経済成長で日本も水道が完備されるようになり、また軽くて扱いやすいプラスチック製品の流入で、パタッと止まってしまいました。まだ若かった私は、全国各地の陶器の産地に勉強に行きました。そんな中で伝統の技法をいかしながらの、傘立てや漬物壷など新しい製品を提案していったのです。」
『はんどうを作る手と食器を作る手は違うぞ。』
「当時は、仲買いさん(問屋)からの情報がほとんどない状態で、もちろんアドバイスもなし。そんな状態ですから、市場の動きはさっぱりつかんでいませんでしたね。でも昭和40年代に民芸ブームがきて、石見焼にもスポットライトが当たり始めたんです。」「でも、ある人にこう言われたんです。『はんどうを作る手と食器を作る手は違うぞ(大物を作る技法と、人の口に入るものを入れる食器を作る技法は違う。甘くみるな。)』と言われたんですよ。」その言葉が、嶋田さんの生来の負けん気に火をつけ、がむしゃらにがんばって、石見焼独特の素朴な風合いと、温かみを持つ焼き物を開発製造することができた。時代の流れに動かされながらも、その石見焼の本流の伝統と技法を頑なに守り、現在も現役で仕事を続ける嶋田さん。『日本の職人ここにあり』という感がある。
伝統と技法は精神とともに継承され続ける
「一言に伝統と言っても古いものにこだわっているだけじゃ、とっくに終わってますよ。わしは親父の後を継いだ2代目やけど、息子の3代目(嶋田孝之さん)、また孫の4代目(嶋田健太郎さん)にもよう言うんですよ。『伝統にあぐらをかくな。市場に支持されることが大切じゃ。死ぬまで勉強やぞ。チャレンジすることを忘れたら、仕事を辞めろ』とね。」
間違いなく嶋田春男さんは、職人としても人間としても超一流の人だ。
こぼれ話
『石見焼』の現存する最古の資料
石見地方では、豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(1592~1610)に従軍した斎藤市郎佐衛門が、朝鮮陶工である李朗子を連れ帰り、唐人窯を開いた記録があります。高取焼や萩焼で発掘された皿や、すり鉢などがこの地方の出土品と類似していることが確認されています。唐津焼・高取焼・萩焼等の文禄・慶長の役の後に起こった窯は、わが国の焼き物の源流をなすもので、陶磁史上貴重な窯の一つであると評価されています。このことは「唐人窯」にもあてはまり、その窯で焼成された遺物は灰釉がかけられていたことがわかります。
石見地方で本格的な焼き物が作られるようになるのは、江津村(現江津市)の森田某が寛暦13年4月(1765年)朝鮮もしくは、同系の唐津技法が周防岩国藩の入江六郎から学び伝えられ、小物技法が石見で生まれ、作製されていたと考えられています。
一方、天明年中(1781年頃)備前の国より、一職工が江津村に来て、粗陶器作り、大物技法を伝授したと歴史書にあります。これら大物と小物の二つの流れが入ってきて、時代の需要にも影響され、良質の粘土を豊富に有する石見地方は、幕末にかけて『石見焼』の根本を確立していきます。
文化・文政時代(1804~1829年)には、日本各地で窯が急激に増大していきました。石見地方でも丸物(焼物)の許可願い等に関する文章や、記述が残されています。
文政2年(1819年)5月「谷戸経塚」が造営されました。この経塚から発掘された一石一経が収められていた甕は、それ以前のものとされますが、『石見焼』の現存する最古の資料として重要です。
*https://kougeihin.jp/craft/0417/ より
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