残念ながら昨年-2020年にご逝去されたミュージシャンの方々を少し。
「服部 克久」1936年11月1日 - 2020年6月11日
あの「服部良一」氏のご長男。息子は「服部隆之」。
こんな音楽一家は珍しい。
服部克久さん、洗練のサウンドで昭和を彩る
自宅に作曲・編曲譜延べ6万曲 83歳で死去 2020年6月11日 22:30
83歳で亡くなった作曲家の服部克久さんは、昭和の高度成長期から平成まで日本のポピュラー音楽界に欠かせない顔だった。音楽番組「ザ・ベストテン」のテーマ曲を書き、山口百恵の引退公演の監督を務め、谷村新司の「昴」の編曲を手がけ、時代劇「江戸の旋風」の音楽を担当するなど、仕事は多岐にわたり、東京・世田谷の自宅には作曲、編曲した譜面が延べ6万曲分残された。膨大な仕事量だった。
「青い山脈」「東京ブギウギ」「蘇州夜曲」など数々の名曲を生んだ昭和の大ヒットメーカー、服部良一の長男として生まれた。服部さんは取材のたびに「僕にはおやじのような流行歌は書けません。メロディー作りではかないませんからね。僕の進むべき道はサウンドを中心としたインストゥルメンタル(器楽曲)。そう早い時期に悟ったんですよ」と話していた。
数年前の取材では「僕の生涯の目標はインターナショナルポップス、世界のどこでも通用する音楽を書くことです」と熱心に語った。フランスの音楽人との交流が深く、作曲家のミシェル・ルグランやポール・モーリア、レイモン・ルフェーブルらと親交があった。服部さんの代表曲「ル・ローヌ」「自由の大地」などを聴くと、ルグランやモーリアらの系譜に連なる作曲家だったことが分かる。国際レベルの洗練されたサウンドで昭和を彩った音の仕事師だった。
長男の服部隆之はNHK大河ドラマ「真田丸」などの音楽を手がける売れっ子作曲家。隆之の長女の服部百音はバイオリニストとして国際的に活躍中だ。「良一から数えて服部家4代、みんな音楽畑なんですよ。音楽の遺伝子を一番色濃く受け継いでいるのは百音かなあ」とうれしそうに笑った顔が今も印象に残っている。(吉田俊宏)
*https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60265880R10C20A6BC8000 より
「筒美京平」1940年5月28日 - 2020年10月7日
日本の歌謡曲界において、右に出る人はいない作曲家、編曲家。
「日本一ヒット曲を生んだ男」の唯一無二の功績
筒美京平の「王道に見えて異端」な作曲のすごさ スージー鈴木 : 評論家 2020/10/21 13:10
小泉今日子さんの『なんてったってアイドル』などを手がけた作曲家・筒美京平さんが亡くなられました。筒美京平さんの功績、その大きさと重さを考察します。 小泉今日子 1986年(写真:時事通信)
作曲家・筒美京平が10月7日、誤えん性肺炎で死去した。80歳だった。
音楽評論家として、氏の巨大な功績を追い続けてきた私だが、そんな私の予想を超えた大きさで、筒美京平の死は、取り扱われた。しかし、一定の年齢以下の層や、意識的な音楽ファン以外の層にとって、筒美京平の功績は、非常にわかりにくいのではないだろうか。当の筒美京平自身が、徹底的に裏方に徹し、メディア露出や積極的な発言を好まなかったから、なおさらである。
そこで今回は「月間エンタメ大賞」の特別編として、筒美京平の功績、その大きさと重さを、私なりに捉えてみたいと思う。
小室哲哉をしのぐシングル売り上げ枚数
筒美京平の功績を一言で言えば「ヒットシングルを量産し続けたこと」に尽きる。
生涯で3000曲弱の作曲を手がけ、売りも売ったり、作曲家としての売り上げ枚数は7560万枚に上るという(オリコン調べ)。筒美京平に続くのは、作曲家・小室哲哉で7184万枚。筒美京平と僅差なのだが、筒美京平と小室哲哉では活躍した時代が異なる。小室哲哉が最盛期を迎えた90年代は、いわゆる「CDバブル」で、音楽ソフト市場が爆発した年だった。
日本レコード協会によれば、音楽ソフトの生産金額がピークを迎えたのは1998年で6075億円。その前年1997年に、作曲家・小室哲哉の最高売り上げとなった安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』が230万枚を売り切っている。逆に、作曲家・筒美京平としての最高売り上げ枚数(124万枚)となったジュディ・オング『魅せられて』がリリースされた1979年は、1998年の半分以下、2626億円にとどまる市場規模だった。
つまり小室哲哉の時代に比べて、まだまだ市場が小さかった時代において、小室を超えるヒットシングルを、ロングテールに積み重ねたということが、筒美京平のすごみなのである。
では筒美京平は、どのような方法論でヒットシングルを生み出し続けたのか。
方法論の本質は、その時代その時代における最新の音楽潮流を、筒美京平一流の鋭いアンテナでキャッチし続け、日本の「お茶の間」になじむように加工することだった。
ロック時代に合わせた強いエイトビートをバックに、まるで小唄のような和風の歌い方を乗せて大ヒットした、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)。フォーク/ニューミュージック的なサウンドと、これまでの歌謡界には見られなかった型破りな歌詞が見事にマリアージュした、太田裕美『木綿のハンカチーフ』(1975年)。
当時、世界的に大流行し始めていたディスコサウンドを、抜群の歌唱力を持つ女性新人歌手の歌に導入して大ヒットとなった、岩崎宏美『ロマンス』(1975年)。エキゾティック・ブームを先取りした大胆なメロディーとアレンジで、作曲家・筒美京平の最高売り上げとなったジュディ・オング『魅せられて』(1979年)。
と、どの曲も、当時最新の音楽動向を捉えつつ、それを見事に「お茶の間化」することで、大ヒットとなったのだ。筒美京平の才能の根幹は、この「お茶の間化力」だったと、つくづく思う。
作詞家との柔軟なコラボで市場変化に立ち向かった
さらには、その時々の有能な作詞家と刺激的にコラボレーションすることでエネルギーを得ながら、音楽市場の変化と戦い続けたことも、ヒットシングル量産の大きな要因と思う。
先のいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』を作詞したのは橋本淳。筒美京平を作曲の世界に導いたキーパーソンであり、筒美とコラボした楽曲数は500曲を超えるという。橋本×筒美が生んだ、高度経済成長期に合うバタ臭い音楽性は、初期・筒美京平のブレイクに大きく寄与した。
筒美京平の「第1期黄金時代」とも言える1971年に日本レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦『また逢う日まで』や、岩崎宏美『ロマンス』でコラボした作詞家は阿久悠。高度経済成長から、オイルショック、低成長時代へと移っていく中で、厳しい時代を生き抜く、自立した女性のイメージが残る作品群が印象的である。
70年代後半からの、主にフォーク/ニューミュージックの市場を攻略する局面でのパートナーが、伝説のロックバンド=はっぴいえんど出身の作詞家、松本隆だった。都会的で個性的な筆致を武器に、太田裕美『木綿のハンカチーフ』から、桑名正博『哀愁トゥナイト』(1977年)を経て、近藤真彦『スニーカーぶる~す』(1980年)前後の「第2期黄金時代」を、筒美と共創することとなる。
80年代になって、筒美京平のそばに現れるのが秋元康。コラボした曲は案外多く約100曲にのぼるという。稲垣潤一『ドラマティック・レイン』(1982年)がコラボの端緒となり、80年代特有の軽薄短小な気分に合わせて、アイドルがアイドルを対象化する小泉今日子『なんてったってアイドル』(1985年)も、このコンビの作品だった。
以上に見られるように、その時代その時代で、最も勢いのある作詞家と果敢にタッグを組み続けた、逆に言えば、旬の作詞家とコラボし続けられる柔軟性を持っていたことも、筒美京平がヒットシングルを量産し続けられた大きな要因だと考えるのだ。
少しばかり教科書的に、筒美京平の功績をひもといてみたが、ここまでを読んでも、作曲家・筒美京平の真の功績や価値は、十分に伝わらないのではないかと懸念する。とくに80年代、『スニーカーぶる~す』以降、筒美京平が名実ともに「王道」となった中で、幼少時代を過ごした40代の人々にとっては。
逆に90年代以降の、主に「渋谷系」ムーヴメントにおいて、小沢健二やピチカート・ファイヴとのコラボに象徴される「筒美京平リスペクト」の気運を知っている30代の方々には、もろもろが違和感なく伝わっているのかもしれないのだが。
私は80年代に青春時代を過ごした口だが、70年代の筒美京平作品も、子どもながらにリアルタイムで聴いていた世代でもある(54歳)。その世代感覚から思うのは、1979年=『魅せられて』までの作品群のほうに、ひきつけられる度合いが強いということだ。言い換えれば、1979年と1980年の間、『魅せられて』と『スニーカーぶる~す』の間あたりに「筒美京平フォッサマグナ」があるということ。
確かに80年代以降にも、好きな筒美京平作品は山ほどある(小泉今日子『夜明けのMEW』など)。ただ、筒美京平作品が、音楽シーンの中で、明らかに斬新だった、まだまだ異端だったのは、筒美が40代になる前に生み出した1979年までの作品群だったと思うのだ。
このあたりは意見が分かれるところかもしれないが、まだ未聴の方がいるならば、まずは本稿で述べた60~70年代の筒美京平作品に耳を澄ませ、「お茶の間化力」を駆使しながら、キレッキレの作詞家との刺激的なコラボの中で、斬新でハイカラなヒット曲を量産し続けた筒美の本領を感じてほしいと思う。
今後現れることのない無二の作曲家
ビーチ・ボーイズに『ペット・サウンズ』(1966年)という独創的な傑作アルバムがある。山下達郎は、そのライナーノーツにこう書いている。
『ペット・サウンズ』のような響きを持ったアルバムは、あらゆる意味でたった1枚きりであり、このような響きは今後も決して現れることはない。それゆえにこのアルバムは異端であり、ゆえに悲しい程美しい。
筒美京平を強くリスペクトする山下達郎のこの文章になぞらえながら、筒美に対する私の思いを記して、本稿を終わりたい。
――筒美京平作品のような響きを生み出せる作曲家は、あらゆる意味でたった1人きりであり、あのような響きは今後も決して現れることはない。それゆえに筒美京平作品は、一見王道に見えて、でも、だからこそ異端であり、ゆえに悲しい程美しい。
*https://toyokeizai.net/articles/-/382884 より
「中村 泰士」
1939年5月21日 - 2020年12月20日
作曲家・作詞家。
中村泰士さんが死去 作詞作曲家「喝采」や「北酒場」 2020年12月24日 17:38
ちあきなおみさんのヒット曲「喝采」などを手掛けた作詞作曲家の中村泰士(なかむら・たいじ、本名=たいし)さんが12月20日午後11時50分、肝臓がんのため大阪市内の病院で死去した。81歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は長男、修士氏。
1957年に歌手デビュー。楽曲の制作を中心に活動するようになり、昭和の歌謡界でヒットメーカーとして活躍した。「喝采」のほか、細川たかしさんの「北酒場」を作曲し、72年、82年の日本レコード大賞をそれぞれ受賞した。
代表曲はほかに、園まりさん「夢は夜ひらく」、佐川満男さん「今は幸せかい」、桜田淳子さん「わたしの青い鳥」、五木ひろしさん「そして…めぐり逢い」、細川さん「心のこり」など。
*https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC247PH0U0A221C2000000 より
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