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<経産大臣指定伝統的工芸品> 埼玉 行田足袋

2021-02-21 07:49:23 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「行田足袋」

 行田足袋とは
 埼玉県行田市で足袋が作られるようになったのは、行田市が木綿の産地であった事が関係しています。
 更に近くには中山道も通っており、旅人たちが多く行き交っていました。

 そこで、旅人達にも販売出来るように、旅行や作業に使用する足袋作りが行われるようになっていったのです。

 明治に入るとミシンの導入によって生産量は飛躍的に増加します。
 1938年には足袋の全国シェア8割を占めるほど、行田の足袋は定着していきました。

 行田足袋が出来るまで
 足袋は一見シンプルな作りに見えますが、実はとても奥が深いものでもあります。
 準備から完成まで、行田足袋の製造工程は下記の13に分かれています。

 【行田足袋の作り方】
 1.準備:ひきのし布を裁断する為、10枚重ねる
 2.通し:足袋の型をあて、布を裁断する
 3.かけとおし:コハゼをかける糸を通す
 4.押さえ:通した糸が動かないように止める
 5.ハギマチ:コハゼをつける箇所の裏に布を縫いつける
 6.コハゼつけ:コハゼを縫いつける
 7.羽ぬい:表地と裏地を縫い合わせる
 8.甲ぬい:甲の部分を縫い合わせる
 9.尻どめ:かかとを丸く縫う
 10.つまぬい:爪先を縫う
 11.まわし:爪先以外を縫う
 12.千鳥:まわし縫いした所をギャザーにからみ縫いする
 13.仕上げ:最後に形を整える
 

 陸王と行田足袋

 2017年に放送された池井戸潤さんの小説原作・TBSドラマ「陸王」では、行田市が足袋の町として登場しました。

 埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」の4代目社長である宮沢さんを主人公として、需要が減っていく足袋をなんとかしようと、足袋作りの技術を活かしたランニングシューズの開発に挑むという物語になっています。

 このモデルになったのは実際に存在する「きねや足袋株式会社」で、ランニング足袋の販売も行っています。

*https://shikinobi.com/gyoda-tabi より

*https://kougeihin.jp/craft/0300/ より

 Description / 特徴・産地

 行田足袋とは?
 行田足袋(ぎょうだたび)は、全国一の足袋生産を誇る埼玉県行田市で生産される特産品です。
 利根川、荒川の二大河川に挟まれた行田市周辺地域は、水や堆積した砂質土が豊富な場所。さらに夏場は高温になるため綿の栽培に適しており、木綿の生産が盛んとなりました。また、それに加えて近くに中山道が通っていたことなどから、足袋の製作が隆盛していったと考えられています。
 生地は木綿、こはぜは真鍮もしくはアルミ(または同等の素材)を使い、指の収まりがよくなるよう、ふくらみをつけながら立体的に縫製されているのが特徴。現在でも和装文化に欠かせないアイテムです。

 History / 歴史
 行田足袋 - 歴史

 享保年間(1716~35年)ごろに描かれた『行田町絵図』には3軒の足袋屋が記されていることから、行田足袋の生産はそのころから開始されていたと考えられています。
 100年ほど経過した天保年間(1830~44年)になると、足袋屋は27軒に増加。さらに近代に入ると足袋は大衆化して需要が拡大し、行田の足袋商人は東北地方や北海道へも販路を広げます。また、作業工程に合わせて特殊な専用ミシンが導入されるなど製作面も進化。それに加えて日露戦争の好景気もきっかけとなり足袋工場建設が進みました。
 生産量の増加とともに製品を保管するための足袋蔵も数多く建造されましたが、そのうち約80棟の足袋蔵は現存。行田の町に趣きある景色をもたらしています。
 昭和13~14年(1938~39年)の最盛期には全国の約8割の足袋を生産し、“日本一の足袋のまち”と呼ばれるまでになりました。
 靴下が普及した現在も、行田では足袋の生産が続けられ、国内外へ新製品をを発信し続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/gyodatabi/ より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-北山修

2021-02-20 08:26:50 | MUSIC

 「北山修」

 1946年6月19日生まれの74歳

 

 きたやまおさむ「良い加減に生きる」
 加藤和彦がいなくなって10年... 2019年10月16日11時09分


   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   「何よりも加藤和彦は私にとってライバルだった」--。

   作詞家で精神科医、大学教授でもあるきたやまおさむは、先輩の精神科医、大学教授の前田重治と書いた「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理」(講談社新書)の中でそう書いている。

   時代を変えたアーティストやグループはいくつもいる。彼らの登場でその後の流れが変わった。当人にとっては思い付きの遊びだったことが、その後の人たちとっては人生を変えてしまうような大きなきっかけになった。

   そういう人たちの中でも、1967年に「帰って来たヨッパライ」で衝撃的なデビューを果たしたザ・フォーク・クルセダーズ、通称フォークルは当時も今も他に比較対象のない一組だった。その時のメンバーが加藤和彦、はしだのりひこ、きたやまおさむの3人である。

 

   「帰って来たヨッパライ」は、聞いたことのない音楽だった。

   "おらは死んじまっただ"という破天荒な始まり。"天国いいとこ一度はおいで""酒はうまいしねえちゃんはきれいだ"という人を食ったような盆踊り口調もテープレコーダーの早回しだ。天国に行ったのは車の急ブレーキの効果音付きの"酔っぱらい運転"の末だ。しかも天国でも酒を飲み続けて神様に"もっと真面目にやれ"と怒りを買って天国を追放されて地上に戻されてしまうという奇想天外な歌。おまけにアウトロにはビートルズとベートーベンと木魚が一緒になっている。

   ラジオの深夜放送をきっかけにして「何だこの歌は」という評判は瞬く間に全国に広がり、急遽、発売されたレコードは当時で280万枚という驚異的な売り上げを記録した。

   きたやまおさむは、やはり自著「良い加減に生きる」の中で加藤和彦について、「もし『帰って来たヨッパライ』がヒットしていなかったら」と書いている。

   常識にも形式にも捕らわれない型破りで自由奔放な遊び心。あの曲があったから今の自分がある、と公言しているミュージシャンは、井上陽水や泉谷しげる、THE ALFEEの坂崎幸之助など数えきれない。

   聞き手だけではなく、彼ら自身の運命も一変させてしまった。

   フォークルは、京都の龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌「メンズクラブ」に投稿した「メンバー募集」の呼びかけに応じた学生5人で結成された。真っ先に自転車で駆け付けたのが京都医大のきたやまおさむだった。

   「帰って来たヨッパライ」は、卒業する前の記念に自主制作したアルバム「ハレンチ」の中に入っていた曲だ。日本と世界の民謡をカバーしたアルバムの中に入っていたのがオリジナルの「帰って来たヨッパライ」と朝鮮民謡と思って友人の松山猛が詞をつけた「イムジン河」だった。「ヨッパライ」の次のシングルとして発売されることになった「イムジン河」が、作者不明の民謡ではなかったことが判明。朝鮮半島の政治的な状況もあって発売日当日に中止になるという"事件"もあった。

   フォークルの異例はそうしたデビュー曲にまつわるものだけではない。

   「ヨッパライ」の爆発的な反響によってメジャーなレコード会社、東芝からデビューすることになったものの、彼らの希望は一年間という「期間限定」のプロ活動。オリジナルアルバム1枚、ライブアルバム2枚を残した予定通りの解散は「レコード会社が買えるくらいに稼いだから」という冗談めいたコメントつきだった。

   ただ、そのままで終わっていたら、こんな風に語られることもない学生バンドの痛快ヒット話で終わっていたかもしれない。両輪の加藤和彦ときたやまおさむは対照的な別々で輝かしい実績を残して行くことになった。プロになる時に躊躇する加藤和彦を説得したのがきたやまおさむだった。

きたやまと加藤が違った点
   フォークルのオリジナル曲の多くが作詞・きたやまおさむ、作曲・加藤和彦というコンビで書かれている。グループ解散後に作詞家になったきたやまおさむには、はしだのりひこが組んだバンド、ザ・シューベルツの「風」やジローズの「戦争を知らない子供たち」、レコード大賞作詞賞を受賞した堺正章の「さらば恋人」など多数のヒット曲がある。

   加藤和彦はソロのシンガー・ソング・ライターとして当時のアメリカのヒッピーたちの"LOVE&PEACE"のメッセージをキャッチしたカルチャー・リーダー的なアルバムを発表、73年に組んだバンド、サディスティック・ミカ・バンドはイギリスで評価され、レコード発売、ツアーも成功させた。彼が私財を投げうって設立したPA会社、ギンガムは日本の音響業界を変えた。70年代の日本のロック最大の功労者の一人が彼だ。

   ただ、二人が音楽業界にいた時期は長くない。サディスティック・ミカ・バンドのロンドンでのコンサートを、きたやまおさむは、ロンドンの大学の医科研修生として見に行っている。彼の仲間が曲を書き、ロンドンでレコーディングされた彼の76年のソロのファーストアルバム「12枚の絵」の中の「旅人の時代」は、加藤和彦の曲だ。

   きたやまおさむは、自著「良い加減に生きる」の中でこう書いている。

   "私があの人と違うのは、医学部に戻るという確たる場所があったということです。それに対して、彼のギターのセンスとテクニックは抜群でしたから、その面ではショービジネスに残る自信もあったでしょう"

   彼の著書「良い加減に生きる」と同時に自選集CD「良い加減に生きる」も発売されている。選ばれた19曲の中には加藤和彦が合いの手を入れている「旅人の時代」も収録され、ロンドンで曲作りをしている二人の写真も載っている。

フォークルもきたやまも加藤も「コブのない駱駝」
   加藤和彦が行った、日本で前例のない試みが80年代前半のアルバムのレコーディングだった。79年、「パパ・ヘミングウェイ」はバハマ、80年「うたかたのオペラ」はベルリン、81年「ベル・エキセントリック」はパリでレコーディングされた「ヨーロッパ三部作」。妻の作詞家、安井かずみやYMOの細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、矢野顕子らと現地に滞在しながら曲を作りレコ―ディングする。

   世界を旅しながらアルバムを作る。そんなスタイルは、当時の若者たちにとっての羨望と憧れだった。80年代日本のバブルの軽薄短小と一線を画したヨーロッパ的デカダンスやダンディズムは"早すぎた大人のロック"以外の何者でもなかった。

   その後もヴェネツィアで制作された84年の「ヴェネツィア」、東京とパリで作られた「マルタの鷹」、ロサンゼルスで録音された91年の「ボレロ・カリフォルニア」とそうしたスタイルは、続いたものの、その後にソロアルバムは出ていない。90年代以降、彼はスーパー歌舞伎とのコラボレーションなど、日本的なものに目を向けているようだった。

   サディスティック・ミカ・バンドはその後、新たな女性ヴォーカルで二度に渡って再結成、フォーク・クルセダーズもTHE ALFEEの坂崎幸之助を、加えて再結成もされている。

   そうやって2000年代を過ごす中で、彼が何を思っていたか。それが、10年前の10月16日の決断につながっていったのだと思う。

   公開された遺書には"私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし"とあった。

   きたやまおさむは自著「良い加減に生きる」の中で"彼の自死はある意味では確信犯なんです"と書いている。

   彼の自選集CD「良い加減に生きる」にはフォークルの「コブのない駱駝」も収録されている。作詞・きたやまおさむ、作曲・加藤和彦である。

   コブのない駱駝と鼻の短い象と立って歩く豚が自分の姿の醜さを嘆いている。でも、実は、それぞれが「馬」と「河馬」と「人」だった、というオチがついている。

   自分が他と違うということで悩んでいる人がいかに多いか。「コブのない駱駝」はきたやまおさむの自伝のタイトルにもなっている。筆者のインタビューに「あの曲が精神科医としての原点」と話していた。

   フォークルも、その後の加藤和彦もきたやまおさむもそれぞれが日本の音楽業界では「コブのない駱駝」だったように思う。

   そして彼らはそれを自覚していた。

   フォークルは、何よりも「自由」に見えた。業界のしきたりや伝統、あるべき姿やあってはならない姿という固定観念がなかった。

   加藤和彦は「音楽」にその「自由」を求め、きたやまおさむは「精神」にそれを求めてきた、と言えないだろうか。

   彼がいなくなって10年が経つ。

   自分の人生の結末をどうつけるか。

   これから語られるべきことの方が多いのではないだろうか。

*https://www.j-cast.com/trend/2019/10/16370127.html?p=all より

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<日本酒> 栃木 惣譽/惣譽酒造

2021-02-20 08:19:51 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 惣譽/惣譽酒造

 変わらぬ味を生む極意、ブレンドの妙 栃木・惣誉酒造
 ぶらり日本酒蔵めぐり(12) 2019/7/20

 全国新酒鑑評会で9年連続、金賞を受賞している惣誉酒造
 「地元で愛される酒を造り続ける」。惣誉(そうほまれ)酒造(栃木県市貝町)は、そんなモットーを掲げる。とはいえ、志向は内向きではない。9年連続で全国新酒鑑評会の金賞を受賞し、海外の市場にも目を向ける。同社の酒造りの特徴を読み解くキーワードは「山田錦」「生酛(きもと)」「ブレンド」だ。

 原料米にこだわり、安価な普通酒の仕込みにも最上級の山田錦を使う。全量、自家精米で、コメの周縁の雑味成分を効率的に除く扁平(へんぺい)精米を採り入れている。「玄米ベースで6割を山田錦が占めます。しかもすべて兵庫県の特A地区産です」と話すのは専務の河野道大さん。掛け米(もろみ造りに使うコメ)に一部、五百万石や、栃木県産の食用ブランド米「あさひの夢」を使う。


 原料米の6割は兵庫県の特A地区産の山田錦(写真提供:惣誉酒造)
出荷量は栃木県内では上位に位置するが、9割が県内消費だという。都内にも「惣誉」を置く飲食店はあるが、ごく少数で、県外でお目にかかる機会はなかなかない。地元で支持され続けるために、どんな工夫をしているのだろうか。河野さんは「同じ味を提供し続けることに尽きます」と強調する。同じ味を出し続ける。当たり前のようでいて、これが結構難しい。

 コメの質は収穫年によって違う。どの酒蔵でも、精米後のコメを水に浸す時間や、蒸す工程の管理などを調整して対応する。「それでも違いが出ます。極端に言えば、全く同じ工程で同時に造ってもタンクごとに違いが出る場合もあります」。それを克服する手だてが、ブレンドだ。醸造年度と使用酵母が異なる酒を混ぜ合わせ、前年までに出荷済みの商品の味を再現するのだ。

 蔵内の冷蔵庫には火入れしてビン詰めされた酒が積み上がっている。貯蔵中はビン内熟成が進む。ロットごとに標識がついているわけではないが、ちゃんと整理して保管している。ある場所に積んであるのは「28醸造年度、使用酵母は14号」といった具合だ。醸造年度は3年分、使用酵母は3種類ある。この中から、市販品の味を再現する組み合わせを探る。

 鍵を握るテイスティングは社長の河野遵さんと杜氏(とうじ、醸造責任者)の秋田徹さんが担当する。ウイスキーのブレンダーにも似た作業が繰り広げられる。極めて微妙な味の違いを見極める能力があるのだろう。遵さんの長男で、見習い中、と謙遜する道大さんは「だれよりも惣誉の味を知り抜いている2人ですから」と笑う。舌の力が品質を支えている。

 面白いのは「地元の人が飲み飽き、飲み疲れしない酒にするためには、味が変わってはいけません」という考え方だ。「惣誉」になじんだ飲んべえが安心して飲めるように、変化する誘惑を断ち切って、味わいの連続性を優先する。一見(いちげん)さんの顔色をうかがうことはない。

 「地元の飲食店では今も、日本酒といえば『惣誉』。飲酒人口の減少に直面しているのは事実ですが、それでも栃木の地盤は崩したくありません」。テイスティングによってブレンドの比率が決まると、ビンを開けて酒をタンクに戻し、しばらくなじませてから、出荷用に改めてビン詰めする。

 ところで、平成30醸造年度(2018~19年)、全国新酒鑑評会の金賞を受賞した酒蔵のうち、最も長い期間、連続受賞しているのは「高清水」の秋田酒類製造・御所野蔵(秋田県)と「黄金澤」の川敬商店(宮城県)。16年連続となった。惣誉酒造はこれには及ばないが、関東(1都6県)では最も長期にわたって連続受賞している。


 テイスティングルームは大谷石でできている ビンを持つのは河野道大専務
「金賞の宣伝効果はどのくらいかわかりませんが、鑑評会は技術の研さんのためにはとても重要です」と道大さん。2014年には杜氏が、70代半ばに達した阿部孝男さんから秋田さんに交代した。杜氏は30歳近く若返った。金賞の連続受賞が途切れる要因の一つに杜氏の交代がある。だが惣誉酒造は無事に乗り切った。

 「技術の伝承がうまくいっている証しではないでしょうか」。秋田さんは15年間、阿部さんの下で酒造りを学んだ。杜氏を社員として通年雇用するのが主流になり若返りが進む中で、長期間、ともに働き技術を継承する例は少なくなっている。金賞の連続受賞は、杜氏以下12人の造り手の間で技術の継承と、酒造りのコンセプトの共有がなされていなければ実現しないだろう。阿部さんは80歳近くになった今も顧問として、醸造期には蔵を訪れるという。

 鑑評会に出品する酒が華やかな吟醸香をまとい、適度な甘みと軟らかいのどごしを感じさせるのに対して、「惣誉として、らしさを表現している酒は別にあります」と道大さん。その代表格が「惣誉 生酛仕込 純米大吟醸」だという。兵庫県三木市の特A地区で収穫した山田錦だけを原料米に使った、「エレガントな生酛」だ。

 生酛造りは、酒のもととなる酒母に乳酸を添加する「速醸酛(そくじょうもと)」ではなく、乳酸菌による発酵で乳酸を得て雑菌を殺し酵母が存分に活動できるようにする。その過程の違いから、肉料理や酸味の強い食材にも負けない骨太な酒質になるとされる。乳酸発酵を待つ分、酒母造りには4週間ほど余計に時間がかかるという。

 

 惣誉酒造が仕込み方法を山廃から生酛に切り替えたのは2001年。「きめ細やかで味わいが深く、余韻がある」。社長の河野遵さんと杜氏の阿部さんの意見が一致し、生酛のよさを再認識した。以来、生酛造りでありながら、いかに軽やかさを感じさせるか。野性味を強調しすぎず上品に仕上げるか。その理想像を求めて、惣誉の造り手は技術を磨き続けてきた。

 商品の3割が生酛造り。「惣誉 特別純米酒 辛口」のように、生酛と速醸酛をブレンドした商品もある。「料亭など、繊細な和食を提供する店からは生酛100%より速醸酛とブレンドした商品が好まれる場合もあります」

 創業は1872(明治5)年。江戸時代に近江国、今の滋賀県日野町で味噌などの醸造業を営んでいた近江商人が栃木に移り住み、酒造業を始めた。当代の社長、河野遵さんは5代目に当たる。北関東には、江戸中期以降に近江商人が支店を構え、酒造業を始めたのをルーツとする酒蔵が多い。惣誉酒造もその一つだが、創業の時期は後発といえる。


 明治初期、近江の日野商人がこの地を選んで酒造りを始めた
 なぜ市貝町を選んで酒蔵を建てたのかは、謎だ。記録は残っていないという。たびたび氾濫の起きる小貝川の源流近くに位置し、鬼怒川の伏流水が豊富な場所で、水量には恵まれている。ただ、主要な街道筋からは離れているし、水運に至便ともいえない。地産地消の精神が生まれ、貫かれてきた背景には、マーケティング戦略を立てるうえでの地理的な制約があったのかもしれない。

 地産地消の酒蔵が輸出に乗り出したのは「日本酒のおいしさを世界に伝えたいから」。2011年に始め、売り上げの3%を占めている。輸出先は米国・英国が中心で、香港などにも広げてきた。日本食レストランで評価が高いという。それでも、道大さんは「日本酒はまだまだ特別な酒。もっと日常的に飲んでもらえるよう存在感を高めないと」と課題を口にする。

 あえて伝統的な仕込み方法である生酛造りを復活させ、軽快で飲みやすい生酛を生み出してきた。「生酛のルネサンス」を発信する余地は国内外に広がっている。(アリシス 長田正)

*https://style.nikkei.com/article/DGXMZO47372750W9A710C1000000/ より

  惣譽酒造株式会社 栃木県芳賀郡市貝町大字上根539番地

 ブランド一覧

 「惣譽」手造り・辛口 特醸酒・本醸造・特別純米酒 辛口・大吟醸・吟醸酒 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 57. 辺塚だいだい

2021-02-20 08:16:37 | 食品

 登録番号 第57号 辺塚(へつか)だいだい 

 特定農林水産物等の区分 第3類  果実類  その他かんきつ類(辺塚だいだい)

 特定農林水産物等の生産地 鹿児島県肝属郡肝付町、南大隅町

 登録生産者団体 鹿児島きもつき農業協同組合

 特定農林水産物等の特性 ダイダイとは異なる系統の地域固有の香酸柑橘類。果実は、ダイダイに比べて小ぶり。果皮は、薄く滑らかでライムにも似た独特の香りがある。果汁歩合は50%前後と豊富で、やわらかな酸味とおだやかでふんわりとただよう香りがある。

 地域との結び付き 「辺塚だいだい」の名前の由来である「辺塚集落」は、山と海に囲まれ以前は周囲から隔絶された地域。この地に古くから自生している地域固有の香酸柑橘で、地域限定の特産物として、町外への苗木持ち出しを禁止し、この地域で守り育てられている。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i57.html より

 「辺塚だいだい」は、古くから地域に自生している固有の柑橘です。"ダイダイ"の名称ではあるものの、"ダイダイ"とは別種の柑橘とされています。
 ダイダイに比べて小ぶりな果実は、果皮が薄く滑らかで果汁が豊富です。果皮には、ライムにも似た独特の香りがあり、果汁には、やわらかな酸味とおだやかでふんわりとした香りがあることが特徴です。

 「辺塚だいだい」は、品種として在来種の「辺塚だいだい」を用い、生産地内で栽培されたものです。また、栽培には鹿児島県が推奨する「辺塚だいだいの栽培方法」を参考に行うこととしています。
 収穫は、ほ場を巡回し、収穫適期を確認した上で開始します。
 出荷規格は、「異品種」「腐敗変質」「病虫害」「傷害」の重欠点果以外は、「辺塚だいだい」として出荷できるものとしています。

 「辺塚だいだい」の名前の由来である「辺塚集落」は、山と海に囲まれ以前は周囲から隔絶された地域でした。
 「辺塚集落」は、道路ができる以前は周囲との交流が困難な立地条件であったことから、「辺塚だいだい」は、この地域でしかその利用価値が知られていない産品でした。
 また、生産地である肝付町、南大隅町では、「辺塚だいだい」を地域限定の特産物として振興することを目的に、苗木の両町外への販売、持ち出しを禁止しています。このため、「辺塚だいだい」は、両町以外では栽培されていません。
 地域では、魚の「ツマ」(1)や「カンキツ酢」などに利用され、日常的な食生活に欠かせない果実として親しまれてきました。

 古くから地域の特産品として利用されていましたが、1992年以降、地域の関係機関(生産者団体、行政機関)が一体となって、優良系統の選抜や植栽を推進し、栽培面積の拡大とともに品質の向上を図ってきました。
 1997年には、「辺塚だいだい」の部会を組織し、現在まで、地域が一体となって生産技術の向上等に取り組んでいます。
 近年は、年間50t程度を生産し、地域外への出荷も始めたことから、知名度も徐々に向上しています。

 (1)ツマ:刺身などに用いられるつけあわせのことです。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/57.html より

 

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 47.回答 48.出題

2021-02-20 07:57:06 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 綱挙網疏-こうきょもうそ-物事の根本をつかむことを大事にして、細かな事についてはこだわらないこと。また、大きな悪事の根本を追及することに専念して、小さな悪事は見逃すこと。  

 


 問2 満腔春意- まんこうしゅんい-なごやかな気分が全身に満ちていること。人を祝う言葉。「満腔」は胸や全身に満ちていること。「春意」は春のような気分。 

 


 問3 亡羊補牢-ぼうようほろう-失敗したあとで、慌てて改善するたとえ。あとのまつり。また、失敗したあとで、すぐに手当てをすれば、災いや過ちを大きくしないですむたとえ。羊が逃げたあとで、その囲いを修繕する意から。▽「羊を亡いて牢を補う」と訓読する。  

 


 問4 寵愛一身- ちょうあいいっしん-多くの人の中から特別に扱われ、一人で愛情を独占すること。「三千の寵愛一身に在り」を略した言葉。 

 


 問5 煎水作氷-せんすいさくひょう-絶対に不可能なこと。または、見当違いなやり方では、目的を果たすことは出来ないということ。「煎」は煮るということ。氷を作るために水を煮るという意味から。「水を煎て氷を作る」とも読む。「煎水作冰」とも書く。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 百舌勘定  

 

 問2 資弁捷疾  

 

 問3 素波銀濤  

 

 問4 池魚籠鳥  

 

 問5 洞房花燭


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 埼玉 秩父銘仙

2021-02-20 07:14:42 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「秩父銘仙」

 歴史
 「秩父銘仙(めいせん)」は、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源と言われています。

 秩父は山に囲まれた地形で、稲作に向かないことから養蚕業が盛んでした。その中で規格外の繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産していました。その太織が評判を呼び「鬼秩父」とも呼ばれ大衆の普段着として好んで使われてきました。
 その後太織は「秩父銘仙」と名前を変え、「ほぐし捺染」技術の開発により大胆で華やかなデザインの織物になりました。秩父銘仙は女性の間で手軽なおしゃれ着として大正から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになりました。 当時は養蚕業などを含めると市民の約七割が織物関係の仕事に関わっていたと言われ、 まさに秩父地域の基幹産業でした。

 「銘仙」の語源については諸説ありますが、明治20年ころから太織は「めいせん」の名前で販売されはじめ、明治30年初期に東京三越で販売された際に、「産地それぞれが責任を持って優良品を選んだ」との意味から「銘撰」の字が当てられ、その後に「撰」が「仙」に変わり「銘仙」となったとされています。

 技
 「ほぐし捺染」
 秩父地域出身の坂本宗太郎氏により明治41年特許が取得された技法です。そろえた経糸に粗く緯糸を仮織し、そこに型染めをし、製織する技法です。製織の際に仮織りした緯糸を手でほぐしながら織っていくため、「ほぐし捺染」や「ほぐし織り」と呼ばれています。

 糸に型染めをするため表裏が同じように染色され、裏表のない生地ができあがります。また、経糸の型染めの色と緯糸の色との関係で角度によって色の見え方が異なる玉虫効果が見られる場合もあります。

*http://www.meisenkan.com/chichibumeisen/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0107/ より

 

 Description / 特徴・産地

 秩父銘仙とは?
 秩父銘仙(ちちぶめいせん)は、埼玉県秩父市、秩父郡横瀬町、秩父郡小鹿野(おがの)町、秩父郡皆野(みなの)町、秩父郡長瀞(ながとろ)町一帯で作られている織物です。
 秩父銘仙の特徴は、糸に型染めをするため、裏表がないように染色される平織りの織物ということです。裏表がないため、何度も仕立て直しができ、長く使用できることから庶民の間に広まりました。使用される糸は生糸や玉糸、真綿のつむぎ糸、あるいは、くず繭やくず生糸などを原料とする紡績絹糸(ぼうせきけんし)などの、あまり高級でない糸を使用することからも、一般の人たちに普段着として愛されてきた織物です。
 模様銘仙は仮織りした後、染色することから「ほぐし捺染(ほぐしなせん)」と呼ばれ、また、仮織りの緯糸(よこいと)をほぐしながら織っていくので「ほぐし織り」と呼ばれる技法で製織します。
 秩父銘仙の魅力は、布に玉虫色の光沢があることです。型染めされた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)のそれぞれ違う色を使うことで光沢が生まれてきます。経糸と緯糸の色の組み合わせが補色であるほど、その効果は際立ちます。

 History / 歴史
 崇神(すいじん)天皇の時代、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、養蚕と機織りの技術を人々に伝えたことが起源と言われています。秩父地方の地形は山々に囲まれていることから稲作は難しく、養蚕業が盛んになりました。野良着として生産された「太織(ふとおり)」と呼ばれる織物が生産され評判になり、「鬼秩父」と呼ばれ庶民の普段着として普及していきます。庶民に愛されると同時に、緻密で堅牢という織物の特質から武家にも重宝されるようになりました。
 さらに、「太織」は「秩父銘仙」と呼ばれるようになり、引き継がれた伝統と改良された技術により、明治中期から昭和初期にかけておしゃれ着として広く普及し最盛期を迎えます。1908年(明治41年)、坂本宗太郎氏により特許取得された「解し捺染(ほぐしなつせん)」の技法が開発されると、大胆でデザイン性のある柄が全国的に人気になりました。秩父銘仙は平織りで裏表がないため、何度でも仕立て直しができ、最後はオシメや雑巾までにまで使い回しができる織物として愛されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/chichibumeisen/ より

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昨日の藤井二冠-2/18

2021-02-19 15:05:44 | 将棋

 2021/02/18(木)
 第34期 竜王戦 2組ランキング戦 二回戦(持ち時間:5時間)

 VS 広瀬章人八段

 103手で勝利!

 準決勝の相手は、松尾歩八段。日程は未定。

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-吉田拓郎

2021-02-19 07:56:56 | MUSIC

 「吉田拓郎」

  1946年4月5日生まれの74歳

 「等身大」 歌った先駆者
 「広島時代から今まで、結局は変わってない」。9月、レギュラーを務めるラジオ番組「オールナイトニッポンGOLD」で、懐かしい歌声が流れた。アマチュア時代の1969年、広島市青少年センターでステージに立った「よしだたくろうフォークどくえん会」の貴重な録音。「自分の作る歌は、当時から『日記』だった」と、音楽人生の原点を振り返った。

 広島商科大(現広島修道大)在学中、4人組のロックバンドを結成。独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナルソングを奏で歌った。コンサートを自主開催していた大学生たちのグループ「広島フォーク村」で人気者となった。70年のデビューシングル「イメージの詩」は、広島時代の作。世に拓郎節を印象付けた長大な歌詞は、失恋した心情を書いたものだったという。

 72年に「結婚しようよ」が大ヒット。等身大を歌うシンガー・ソングライターの先駆者として、若者から熱狂的な支持を集めた。当時主流だったテレビの音楽番組ではなく、全国を回るライブツアーを中心に活動。深夜放送のパーソナリティーとしても人気を博した。今は「普通」となったミュージシャン像を作り上げた。

 昨年は東京や名古屋など7カ所のツアーを成功させた。「愛、家族、友達、裏切り、信頼、正義、悪、心。そうした全てを音楽と共に感じながら生きてきた。すばらしいことだったな、と思う」とリスナーに語りかけた。(西村文)

 よしだ・たくろう 鹿児島県生まれ。小3から広島市へ▽1971年、広島商科大(現広島修道大)卒▽74年、森進一に提供した「襟裳岬」で日本レコード大賞▽75年、静岡・つま恋で6万人ライブ▽96~2001年、音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」出演

*https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=695820&comment_sub_id=0&category_id=450 より

 

 J-POPを語るうえで「吉田拓郎」をはずすわけにはいかないだろう。

 「フォークソング」において「政治色」を排除し、ふだんの生活や恋愛を歌った。軟弱ともとられたが、ブレることなく歌い続けた。

 歌謡曲とも従来のフォークソングとも違う「拓郎節」は、以降のフォークシンガー・ニューミュージックに大きな影響を与えた。

 そして、「女の子にもてたい男たち」がギターを弾くようになる。

 「シンガーソングライター」という職業が成立するにも大きな影響を。

 まだまだ「現役」と思いたいのだが・・・

 2019年にラストツアーを敢行したが、昨年「ラストコンサート」の予定がコロナ禍で延期に。

 「<現役ミュージシャン> 意外な年齢の・・・」を書こうと思った理由の一つは、今もラジオ番組を続けている「吉田拓郎」という男の存在があった。

 「ラスト~」という言葉が出るたびに「惜しい」と感じる。

 まだまだ頑張ってもらいたいミュージシャンの一人である。

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<日本酒> 栃木 七水/虎屋本店

2021-02-19 07:51:45 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 七水/虎屋本店

 【心躍る酒を】
 天明八年(1788年)、江戸時代中期後半ごろ近江商人として、初代が宇都宮に酒蔵として創業。当時、宇都宮の七つの名水の一つを使い酒造りを始めました。現在、弊社の代表銘柄「七水」・「菊」にて栃木県内を中心に、県外、海外に商品を出荷しております。【心躍る酒を】コンセプトに【Challenge & Change】の精神で、酒米の特徴を最大限に活かした「米の旨み」を引き出す、多様な日本酒造りで毎年進化する日本酒を醸し続けます。

 株式会社虎屋本店 栃木県宇都宮市本町4番12号

 ブランド一覧

 「七水」七水40 入賞酒・純米吟醸55 夢ささら-「夢ささら」使用

 「菊」 大吟醸 など

 

 「夢さらら」

 「夢ささら」は、平成17年に栃木県農業試験場において、山田錦を母とし、T酒25を父として、高度精白が可能な酒造好適米の育成を目標に人工交配が行われ、平成30年に「夢ささら」として出願公表されました。
 特性

①山田錦より出穂期で4日、成熟期で8日程度早い
晩生である。
②山田錦に比べて、稈長は短く、穂長は長い。穂数は
少なく千粒重は同程度で、収量は同程度。
③山田錦に比べて倒伏しにくい。
④縞葉枯病抵抗性である。
⑤心白発現率が高い。
⑥高度精白に向く。

*http://www.pref.tochigi.lg.jp/g59/documents/01yumesasara.pdf より

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 56. 近江牛

2021-02-19 07:48:44 | 食品

 登録番号 第56号 近江牛

  特定農林水産物等の区分 第6類 生鮮肉類 牛肉

 特定農林水産物等の生産地 滋賀県

 登録生産者団体 一般社団法人 滋賀県畜産振興協会

 特定農林水産物等の特性 融点が低い不飽和脂肪酸であるオレイン酸を多く含んでおり脂質の口溶けが良い。約400年前から生産が続く最も古い銘柄牛のひとつであり、日本の牛肉食文化への貢献や肥育技術の高さから日本三大和牛とも称される。

 地域との結び付き 江戸時代は牛肉食が禁止されていたが、彦根藩は将軍家への献上のため、唯一、牛肉の生産が許されていた。琵琶湖の豊かな水に恵まれ稲作が盛んであったことから、稲わらを中心に給餌する肥育技術が発達。大正時代から肥育振興策が行われ、昭和26年には、日本初となるブランド牛肉振興団体「近江肉牛協会」を設立するなど、日本でも最も古くから和牛生産に取り組んでいる。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i56.html より

 「近江牛」は日本で最も古い銘柄牛のひとつであり、その生産の歴史は約400年に及びます。
 日本の牛肉食文化への貢献や肥育技術の高さから、日本三大和牛とも称されています。
 「近江牛」の肉質は、芳醇な香りと、口のなかでの脂が溶けやすいことが特徴です。こうした特性の背景には、他産地の黒毛和種と比べて「近江牛」がより豊富なオレイン酸(1)を含むことが挙げられます。

 「近江牛」の生産には黒毛和種が用いられます。
 飼養期間のうち、滋賀県で過ごした期間が最も長く、かつ滋賀県が最終の飼養地となっている場合にのみ、その黒毛和種は「近江牛」と名乗ることができます。
 生産者たちは、「近江牛飼養管理マニュアル」に則り、ストレスをかけないように牛を飼育します。また、肥育の中期以降には、飼料として稲わらを中心に与えます。

 江戸時代(2)において、近江は、西国大名から江戸を守るための要所でした。近江を統治する彦根藩(3)は、数多くの武士を抱えており、その武具を作るために多くの牛皮が必要でした。さらに、江戸時代は牛肉食が禁止されていましたが、彦根藩は、徳川将軍家へ薬用の肉を献上するため、例外的に牛肉の生産が許されていました。このことから近江では牛の肥育が意識的に行われていたのです。
 近江は日本最大の湖である琵琶湖を有しており、豊かな水に恵まれていました。  古くから稲作が盛んに行われており、豊富な稲わらを飼料として牛に給与してきたことが、今日における、オレイン酸の多い芳醇な牛肉の生産の背景になっています。
 滋賀県では、大正・昭和初期の時代から牛の肥育の振興が行われ、日本における牛の肥育技術の基礎を形成するのに貢献してきました。

 1951年には、日本初となるブランド牛肉振興団体「近江肉牛協会」が設立されており、滋賀県は、日本における和牛生産の先駆的な地域の1つといえます。

 (1)オレイン酸:不飽和脂肪酸の一種。不飽和脂肪酸のなかでは、比較的酸化されにくい。融点が16.3℃と低く、溶けやすい。また肉の風味に影響を与えると言われています。
 (2)江戸時代:1603年~1867年。日本の時代区分の一つで、江戸(現在の東京)に幕府が置かれていた時代を指します。徳川家康を初代将軍とし以後徳川将軍家を中心とした藩政政治が行われました。
 (3)彦根藩:近江は、現在の滋賀県にあたります。江戸幕府が成立する直前まで徳川家と敵対していた封建領主(大名)は、遠隔地(九州・中国地方)に配置されており、井伊家が彦根藩の当主としてその押さえにあたりました。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/56.html より

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