2022年10月16日 13:32 美具久留御魂(みぐくるみたま)神社(喜志の宮)下拝殿前 富田林市宮町三丁目2053
美具久留御魂神社(喜志の宮)の地車宮入りはコロナ禍で中断していましたが、3年ぶりに復活しました。12台の地車が宮入し、にわか(にわか芝居)を下拝殿前で奉納しました。
仕事の都合で昼からの見学になりました。
【喜志新家】
俄奉納の後、「あばれ」で「差し上げ」される喜志新家の地車。
背景に二上山と待機する次の奉納地車が控えます。
【平】
喜志七郷で一番北の町のひとつ。富田林でも一番北の町のひとつです。「口上」がまず始めにあり、その後にわかを奉納します。
演目は「平千軒」 平には巡礼街道が通り、かつては千軒の民家があり栄えたという言い伝えがあります。
コミカルな寸劇(にわか、俄、仁輪加)を奉納するのが南河内の地車の特徴です。
そのためこの地方の地車(石川型上地車)には3人で俄芝居ができるよう前方部が大きく演台が設けられ、演者が中から出てこれるように幕があります。
例年は境内にずらっと並ぶだんじりも、今年は密を避けるため一台ずつ順番に宮入りを行ないました。
【尺度】
唯一羽曳野市からの宮入り。明治40年頃の神社合祀令により、多くの神社が統合されました。
尺度にある利雁(とかり)神社もこれにより合祀され、美具久留御魂神社の摂社になりましたので、ここに宮入りします。
真新しい令和2年の新調地車。
尺度は喜志の下手にあり、粟ケ池や辰池等の利水エリアですので、もともと喜志と結び付きの深い町です。
演目は時代劇が多く、農民や旅人が多く出てきます。ご隠居さんがでてきて昔の恩を返すような人情的なお話が多いかと思います。最後にダジャレを噛ませたオチが見せ所です。
にわかが終わった後の「あばれ」は各町でまちまち。「おじぎ」や「差し上げ」、「縦横しゃくり」が多いです。
これを得意とする地区がありますが、地車が大型化するにつれてだんだん小回りが利かなくなり、「あばれ」にくくなりました。
【中野】
最近の地車は大きく立派になりました。富田林には古い町並みが多く、狭い路地を大きな地車が曳行されます。中野地区もそのひとつ。
富田林寺内町より古く、富田林寺内町の開発に当たった「八人衆」が出た村です。中世の喜志宮文書「下水分社神田納帳」(天正初年(1573)頃、)では、「きしサクライ、きしかわつら、ヒラ、大ふけ、ミや」とともに「中村」として記述されています。
「にわか」は基本3人でのトリオ寸劇で、その時代・年齢・性別に合わせ、衣装・かつらを合わせます。また小道具もいろいろで、大根や杖、ひもなどもでてきて、オチをつける重要なパーツです。「オチ」があまいと「落ち着き」ません。
役者さんは地元の若者男性。老若男女を上手に演じます。適役というものがあり、この中にも適役の方がいますね。
どの地区もこんな大きな立派な地車をもっているなんて、すごいです。
【新堂】
旧新堂は富田林寺内町が建設される時に「八人衆」を出した村。しかし村の歴史は富田林寺内町より新しい。どういうことかというと、新新堂は何らかの理由で、おそらく近世の江戸初期、慶長年間に東高野街道を取り込む形で建設されたニュータウン(大工丁を除く)。だから街路はまっすぐで碁盤の目状になっています。近世に作られたので寺内町とは呼びません。江戸時代は富田林村と同じく手工業、職人・商人の町として栄えました。
すごく曳き手の多い新堂の地車は迫力ものです。
富田林の喜志の宮地区の地車の彫り物には、地元に関わる武将や縁起が彫られています。
「美具久留御魂神社縁起」が彫られている地車は喜志新家・川面・中野・毛人谷の地車。
「大楠公」さんは喜志新家・中野・若一・毛人谷。
大楠公家来の富田七郎・八郎兄弟は若一。
中野は「河内源氏三代記」も彫られています。
地元の武将や縁起を題材とした地車は比較的新しく新調した地車に多いようです。
二上山に向けて差し上げをする新堂の地車。北緯34度32分、太陽の道。
大勢で「あばれ」る地車は迫力ものです。
現在の白鳥神社の古市の地車のように、昔は新堂内の「北丁」「庄屋丁」「会所丁」「南丁」「大工丁」ごとに5台の地車があったと云われています。
最後の宮司さんと各町曳行責任者による「〆(しめ)」
参考ブログ:「地車名鑑」
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写真撮影:2022年10月16日
2022年11月3日(HN:アブラコウモリH )
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