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通法寺

2025年01月27日 | 南河内の遺跡・史跡

2025年1月18日 15:38 羽曳野市通法寺 通法寺址

お寺自体は明治の初めに廃仏毀釈で廃寺になりましたが、山門、鐘楼などが残されています。本堂ほかそれ以外のものは取り崩されています。

平安時代の後半になって、急速に武士が力を延ばし始めたころ、源満仲の三男頼信は河内守となって、寛仁四年(1020)に河内国古市郡壷井里の香呂峯に居館をを構えて本拠地としました。数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりです。

 

門前には地蔵祠と献燈が残されています。

清和源氏の家系である源満仲の三男として生まれた頼信は、平安時代後期に河内国司として就任し、兄頼光(摂津源氏)や頼親(大和源氏)に習い、古市郡壷井里に居館を構えて本拠地としました。 そして子の頼義とともに観音堂を創建して氏寺としました(通法寺)。

 

山門には「源氏」「祖郷」と掲げられています。境内に2代目「源頼義」の墓、南東の丘陵に初代「頼信」、「義家」の墓があります。

 

 

河内源氏は頼信・頼義・義家と三代にわたり、この地から各地へ出陣して大功をたて、武将としての地位を不動のものにしました。

 

境内に国指定史跡「源頼義の墓」があります。

河内源氏初代棟梁 源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。平忠常の乱の際、頼信を助け乱の鎮圧に貢献しました。また、その後、陸奥守兼鎮守府将として嫡男 義家とともに前九年の役に勝利し名を馳せました。戦功を記念しこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立し氏神としました。88歳で亡くなり、通法寺境内に葬られます。

 

「河内ふるさとのみち」(羽曳野市)現地案内板より(一部加工)

河内源氏が三代この地を根拠とした後、地元に残った石川源氏 義時や鎌倉幕府初代将軍の頼朝につながる家系がたどれます。

 

境内には河内源氏二代目 頼義の墓の他、南東の丘陵地には初代 頼信、三代目 義家の墓があります。

 

灯籠が2対墓前にあります。この墓に近い石灯籠は「笠」が「蕨手」、「竿」が「神前形」、「基礎」には蓮華紋になっています。

 

「観世音菩薩 寶(宝)前」と記銘されています。

 

岸和田藩三代藩主 岡部美濃守宣就(長泰)元禄十三年の銘

おそらくこの時代に徳川綱吉の命で、側用人 柳沢吉保と岸和田藩 岡部長泰がお寺の復興と墓の整備をしたようです。

 

もうひとつは「竿」が円柱型。

 

「奉寄進 頼義公御廟前 石燈臺(台) 二基」

 

これは柳沢吉保が寄進したもの。

いきさつは通法寺と壷井八幡宮は足利家からは保護されていましたが、近世は寺領もなく衰微していました。社司が徳川綱吉の母 桂昌院の護持僧であった隆光(新義真言宗)を通じ保護を訴えます。

元禄十三年(1700)五代将軍綱吉より寺領200石を付与(壷井村106石、通法寺村97石)して復興に着手。元禄十四年(1701)側用人(当時は老中格の上)柳沢吉保、岸和田藩 岡部長泰(当時は初名 宣就)をそれぞれ一対石灯籠を寄進しました。

 

吉保の銘がうかがえます。

 

残されている鐘楼。

 

梵鐘はありません。

 

本堂があったと思われるところには礎石が並びます。

 

こんな立派なお寺が廃仏毀釈でなくなったのは残念です。奉納された「観世音菩薩 御寶前」と記銘された石灯籠でも解るように、檀家を持たない真言宗のお寺(綱吉に口利きした隆光が新義真言宗)であったようなので明治の初めに廃寺になったようです。

 

通法寺と記銘された水盆が無念です。

 

きれいな切石の石垣。非常に丁寧に造られています。

 

明治40年(1907)に建てられた「源館阯碑」

 

銘文に「源館阯在河内国南河内郡駒谷村通法寺」とあります。

 

この周辺は源氏三代の墓をはじめ、氏神である壷井八幡宮など、河内源氏の故郷にふさわしい多くの歴史遺産が点在しています。

関連記事:

通法寺と源氏三代の墓 2017.6.30

写真撮影:2025年1月18日

2025年1月27日 アブラコウモリH

 

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