富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

二上山からの日の出 - 冬至の誉田八幡宮付近(リレー2)

2015年12月30日 | 朝日・夕日

 2015.12.22.7:28 羽曳野市誉田3丁目 羽曳野警察北側付近

冬至の日は二上山中央からの日の出の北限なので、なにか感慨深いものがあります。

 

2015.12.22.7:27

 当日は、お天気が思わしくなく、やっととれたのがこの写真になります。よくみると太陽の上半分が写っているでしょう...それも、1分程度でした。

 

 冬至の日の北限の二上山中央からの日の出は、このラインにあります。この延長線上でいうと、神戸市灘区の摩耶山からも見える計算になります。

藤井寺・羽曳野市内は住宅地が多く、よく見えるところが少ないので、電線が写りこんだりしてしまいますが、ご了承ください。

 

2015.12.22.7:28

私の1年のサイクルは、このようになっています。

冬至(12月22日)羽曳野市、誉田八幡宮付近-春分の日(3月22日)羽曳野市通法寺、石川河川敷付近-夏至(6月21日)富田林市、川西大橋付近-秋分の日(9月22日)羽曳野市通法寺、石川河川敷付近-冬至(12月22日)羽曳野市、誉田八幡宮付近(朝早く自宅から行ける範囲できれいに見える場所)

時間をかければ遠く、摩耶山(夏至)、淡路島、東浦付近(春分・秋分の日)でも見れると思います。

 

誉田(こんだ)八幡宮

近くに誉田八幡宮や応神陵があります。誉田八幡宮は応神天皇陵の南、後円部に鎮座し、6世紀後半に欽明天皇の命で、創建されたと伝えられています。主祭神は応神天皇で、中世に入ってから源氏一族の氏神として崇敬されました。日本最古の八幡宮。主祭神は、応神天皇(誉田別尊ほむだわけのみこと))。

建造物は幾度の戦乱で灰燼に帰しましたが、本殿と拝殿は、慶長11年(1606)豊臣秀頼によって再建されています。

 

 放生(ほうじょう)橋
鎌倉時代に造られたという花崗岩製のみごとなアーチを描く反り橋。人工の井路、放生川を渡ります。

関連記事: 木村藤兵衛尉藤原國次 2015.1.06.

河内名所図会 (享和元年(1801年)刊) によると、 応神天皇陵後円部頂上の六角形の宝殿まで石段を登り、一般客でも参拝できたようです。

現在は9月大祭の時のみ神輿が渡ります。宮司さんのお話によると、数年前まではこの反り橋を渡ったのですが、現在はその横の傾斜のない新橋を渡っているそうです。

昔反り橋を神輿が渡る時も、このアールですから、そのままでは渡れないので、補助の階段をつけて渡っていたとのこと。なお、この神輿はなんと国宝です。(塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)(鎌倉時代)

 後ろの小山は応神陵後円部。

 

 凝灰岩の層塔

 ございましたね!こんなところに!!

「さかなクン」なら、「ギョギョッ!」と飛び跳ねると思います。

明らかに凝灰岩の層塔。たぶん、鎌倉期の作品と思われます。南河内には、河南町、千早赤阪村、富田林市、太子町などのこのタイプの層塔が数多く存在しますが、ここにもありました。

鎌倉期という確証はないのですが、類似の年代が解っている層塔が鎌倉期であること、放生橋をはじめ、先ほどの国宝の神輿、誉田八幡宮が河内源氏の帰依を受けた時期などから、鎌倉期前後の可能性が高いと思われます。

 

 大坂夏の陣古戦場 「誉田林古戦場」の碑

400年を迎え、また来年の大河ドラマ「真田丸」でも、話題になることでしょう。

 

 保存樹の藤の老木

 四方に延びた枝振りが誉田さんの編年をあらわしているようです。

 

 2015.12.22.7:28

冬至を過ぎると、太陽は南へと下ります。

 

関連記事: ☀ リレー1 二上山からの日の出 - シュラホール (リレー1) 2015.12.29.

2015.12月30日 (HN:アブラコウモリH)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 二上山からの日の出 - シ... | トップ | おもしろ画像 ー 狛犬の影 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

朝日・夕日」カテゴリの最新記事