富田林じないまちで幕末に酒を造っていたのは5軒ありました。その中で酒造りの痕跡を残すものを集めてみました。
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享和元年(1801)の「河内名所図会」に「水勝れて善れバ、酒造る業の家数の軒をならぶ。」と賞された富田林の酒。
幕末の嘉永三年(1850)の富田林じないまちの酒屋の酒造米(原料米)高は5軒で4243石。河内16郡の21.3%を占めます。富田林が所属する石川郡は7軒、4983石ですので、石川郡の酒は85.1%、そのほとんどが富田林で造られていたのがわかります。
「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金の水がわく。一に杉山、二に佐渡屋、三に黒さぶ 金が鳴る」
1.杉山家 杉山長左衛門、2.佐渡屋 仲村家 仲村徳兵衛、3.黒さぶ(木綿商)黒山屋三郎兵衛。
幕末の俗謡でそう歌われた富田林の造り酒屋。
わた屋 杉山長左衛門 富筋西林町 山中田出身 八人衆の筆頭年寄
現存する家屋は寺内町で最も古く〈寛永二十一年(1644)〉、江戸中期からの大規模屋敷です。幕末に残る造酒屋では一番古くから酒造りをしていました。
酒造米高:1103石(明治元年)一時期は1ブロック千坪の敷地を持ち、周りを取り囲むように米蔵や酒蔵が並んでいました。現在は半分以下の450坪。屋号は「わたや」ですが、木綿に関する道具は一切残存せず、記録もありません。
造酒屋は天和二年(1682)より創業し、明治前期に造酒屋を廃業しました。約200年、酒運上金(元禄10~宝永6)、減醸令(江戸期の米不作時)、酒造税の増額(明治13)などいろいろな苦難がありました。廃業してからもう140年程度経過していますので、酒の道具類はあまり残っていません。
「万里春」の石田家が明治初期から杉山家や仲村家から酒造株を分与されて酒造りを開始しますので、おそらく酒造道具も一緒に割譲されたのではないかと思われます。
明治以降、廃業した後は50町歩にもおよぶ田んぼからの小作米の収入があり、資産家として存続しました。
旧杉山家住宅の土間に展示されている結樽(ゆいだる)(右)と角樽(つのだる)
杉山家の酒造りについては、下記のブログをご覧ください。
旧杉山家住宅の酒造り 2024.12.28
佐渡屋 仲村徳兵衛 富筋西林町 出身村不明
佐渡に土地を持っていた説や新堂北部の里田(さった)説などがあります。
銘柄「紅梅酒」「丹頂」 酒造米高:1200石(明治元年)
仲村家に残る酒蔵。
天明五年(1785)には河内国最高の2135石の酒造米(原料米)高を誇りましたので、もっとたくさんの酒蔵があったと思われますが、ここしか残っていません。
土地は杉山家(千坪)以上の目算二千坪近く所持しています。杉山家の酒造米高の最高は1103石、天明五年(1785)が記録に残る最高ですので、いかに多くの酒造りをしていたかが解ります。
今も主屋の座敷に残る銘柄「紅梅酒」の酒壷。
この壷も陶器製です。同じく「紅梅酒」ですが「滋養強壮」と書かれているので、普通の日本酒ではなく「養命酒」のような薬膳酒ではないかと思います。「仲村一郎 醸造」と書かれているので、明治二十二年(1889)5月、富田林村初代村長であることが解ります。
仲村家住宅 座敷の付書院に置かれた酒壷
正徳五年(1715)喜志村 与左衛門より酒造株を譲受け、特に天明期にピークを迎えます。現在残る主屋や酒蔵はこの時期の建設になります。
仲村家住宅 床の間
天明期前半は自由競争により、富田林の酒造りは最盛期を迎えますが、後半になって天明八年(1788)減醸令の「三分の一造り令」以降、松平定信の寛政の改革で酒造統制令の連続で右下がりに推移します。
「間淡今古」
宮小路康文は江戸後期の天台宗の僧侶で、明治期の書家。国会議事堂の扁額や平安神宮の應天門、富岡八幡宮の横綱力士碑などを揮毫しました。
富田林市指定文化財の古文書類。令和二年(2020)に指定されました。
仲村家文書は4649点、 附 書籍903点、板木17点、印鑑3点、氏子札1点、酒造関係等証札類23点と膨大な数に上ります。
氏子札1点、酒造関係等証札類
このほか仲村家は、住宅4棟(主屋、表屋、供部屋、土蔵)及び附として普請入用帳2冊、古図2枚が、平成2年(1990)に大阪府指定文化財(建造物)に指定されています。
板木17点、印鑑3点
寛政四年(1792)には「河内一国江戸積大行司」(江戸に送る酒の理事長)となり幕末まで続きます。
仲村家で醸造していたいろいろな銘柄。版木も残っています。
天保7年(1836)に「河内酒造仲間」が結成されました。河内国の地売り(江戸に送らず、地元で消費する)酒造家の組合で、これにも仲村徳兵衛は「大行司」に任命されています。仲村家は明治前期に酒造業を廃業しました。
十津川屋 葛原茂兵衛(葛原本家) 富筋南会所町 銘柄「天下一」 十津川村出身 酒造米高:720石(明治元年)
明治二十二年(1889)「河内国商工便覧」上田利平に記載された葛原家清酒醸造所 葛原専次
銘柄「天下一」の菰樽形宣伝具
明治45年(1945)の時点の河内酒造製造者にも名を連ねています。この時点で、幕末から橋本家、明治以降は石田家に五軒家の岩根家と富田林 和田倉平(出自不明)を加え5家で酒造りをしていたと思われます。
「天下一」の樽の廃材を利用した宣伝具
しかしながら明治45年の時点ではもう仲村家、杉山家、西奥谷家は廃業していたようです。
銘柄「天下一」のロゴ
葛原家は戦前まで酒造りをしていたので、道具や宣伝具、写真が残っています。
「天下一正宗 壜詰」
瓶詰め風景
葛原醸造所 酒蔵
「天下一」販売所
昭和2年(1927)の「天下一酒造場」麹蓋
麹蓋が道具として残るので、この時点でも酒を造っていたのがわかります。
「天下一」の焼印ほか
「天下一」酒瓶
敷地は会所(町年寄らが集集会所)の横、500坪。
別井屋 橋本忠兵衛 「別忠」 城之門筋東林町 別井村出身
酒造米高:397石(明治元年)
幕末に酒造株を購入し。酒造りを始めたようですが、資料に乏しくいつ起業したかは不明です。
明治22年(1889)「河内国商工便覧」には、清酒醸造所として、橋本忠平宅が記載されています。また明治45年(1945)の時点では、石田家、葛原家と共に生産を続けられています。
建物は18世紀後半の典型的な厨子二階平入りの農家形建物。敷地は約400坪。
岩瀬屋 奥谷伊助(西奥谷家) 富筋富山町 河内長野市岩瀬出身
酒造米高:961石(明治元年)現在のじないまち交流館(写真)の場所に西奥谷家の清酒醸造所はありました。
向かいの大きな楠がある所も西奥谷家で幕末は借家になっていたようです。現在は廃業して、じないまち交流館や公園などがあり、造酒屋のおもかげはありません。しかし、天保8年(1837)に葛原茂兵衛より酒造株を一部譲り受けて酒造りを開始しています。
幕末の地図では400坪くらいの敷地があったようです。明治元年(1868)の「酒造三歩書上帳」には酒造米961石とかなり酒造量がありますが、明治22年(1889)「河内国商工便覧」には記載がなく、明治前期には廃業していたようです。
万里春酒造(石田家) 石田紋次郎(明治22年現在) 銘柄「万里春」東筋堺町 東板持出身
明治期の酒蔵 現在はバンリノハルビアホール
石田家は、杉山家や仲村家から酒造株を分与されて、明治初期に東板持村から移り住んだ造り酒屋です。
明治二十二年(1889)「河内国商工便覧」にも記載されています。
店頭の菰樽とホーロ看板
旧酒蔵の菰樽 バンリノハルビアホール
右読みの古い看板
富田林町の「町」が「甼」(甼は町の変体漢字)変体漢字は昔よく使われていました。〈例〉峯:峰、崕:崖、畧:略など。
さらに、、左縦に「電話壹番(一番)」この一番がなんと富田林で最初に電話を取られた証しです。
寺内町まち巡りと万里春ビアホール昼食会 2024 2024.10.11
清酒 万里春の一升瓶
「聖丘 万里春」の卓上瓶。「聖丘 万里春」はPL教団の御用酒。
戦後の最盛期には年間生産量2千石(一升瓶換算で20万本相当)を生産、「万里春」は甘口のうまい酒であったと聞き伝えられています。
戦後も生産は続けられましが、昭和58年(1983)に廃業されました。
2014年5月14日 10年前のイベントで使用された酒造蔵
ホーローの酒造タンクが見えます。
元酒蔵だけあってすごく広い室内。
広大な酒蔵を改修したビヤホールの内部。高い天井、太梁、柱をそのまま露出。
近鉄 古市駅にあった「万里春」駅ベンチ
案内板には今はなき「誉田八幡」駅の表示が...
この写真が昭和4年(1933)~昭和20年(1945)の戦前に撮られたものとわかります。
出典:『古市東地区今昔マップ』より
酒蔵(ビアホール席)に続いて、窓越しに見える製造所。
そして、令和5年(2023)11月にバンリノハルビアホールとして、かつての酒蔵をクラフトビール製造所兼ビアホールとして好評を博しています。
なんとまあ、クリアで切れの良いクラフトビールです。
幕末にはすでに「亀十」(石田家)が土地を所有していることが解ります。
明治45年(1912)における河内酒造業者です。この時点での富田林町は富田林村と毛人谷村が合併した富田林村(明治22年4月)が明治29年8月富田林町に昇格しています。
松尾大社 京都市西京区嵐山宮町3 式内社
お酒の神様としても信仰され、現在においても酒造家からの信仰のあつい神社です。
多くの奉献された酒造仲間の灯籠の中で、楼門に至る参道の一番最後の一対の大きい立派な石灯籠が「河州酒造家」の石灯籠です。(河州=河内) 一対のうち、向かって右側の灯籠。
明治二年(1869)に河内の酒造家全体の行く末を願って建之されたこの灯籠の基礎に富田林じないまちの江戸中期から続く酒造家仲村徳兵衛(河内酒造家仲間大行司)と杉山長左衛門(同 肝煎)の名があります。
そのわずか20年後の「河内国商工便覧」には両家の酒造所の名前はもうありません。
浮き沈みの激しい酒造業の世界で、富田林じないまちの酒造家が20家近く起業しています。
江戸前期(明暦年間1655~58)にお酒を造っていた酒造家は7家。しかし、そのうち幕末まで残った酒造家はゼロです。
酒造りそのものの難しさと幕府の減醸令などの酒造統制、明治以降の社会的な変化での生き残ることの難しさを感じます。
関連記事:旧杉山家住宅の酒造り 2024.12.28
〈リバイバル・アーカイブス〉「河州酒造家」の石灯籠―松尾大社 2017.1.20
写真撮影:2024年10月11日、12月5日、18日ほか
2024年12月31日 あぶらこうもりH
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