〈リバイバル・アーカイブス〉2022.9.26~10.10
原本:2013年12月17日
2013.4.5. 6:00 富田林市宮町3丁目 美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)より
太陽の道: 二上山と美具久留御魂神社
太陽の1年に春と秋の2回、太陽が神社の鳥居越しに、二上山の真ん中から昇ります。
太陽と二上山と神社が一直線にならぶ不思議!
春は4月5日ごろ、秋は9月6日ごろに真ん中から昇ります。
春分の日(2013年は3月20日)・秋分の日(同 9月23日)とずれるのは、二上山と神社の位置と標高が関係しています。
二上山:北緯 34度31分26秒 (34.524) 東経 135度40分34秒(135.676) 標高(馬の背) 420.831m
神社: 北緯 34度31分5秒 (34.518) 東経 135度36秒7秒 (135.602) 標高(下拝殿前)64.103m
余談ですが、
・緯度:1度=111.120km、1分=1.852km、1秒=30.867m *緯度1分=1.85km(どこでも)
*緯度は地球の円周40000kmで360度で割ったら、1度が出ます。
・経度:1度=91.024km、1分=1.517km、1秒=25.285m 経度により異なります。
*経度1分=1.85km×cosφ φはその場所の緯度 φは35度で計算しました。
*地球の歪は、考慮しておりません。
正式な名前は、美具久留御魂神社。地元の人は、「喜志の宮さん」の愛称で呼んでいます。歴史は古く、式内社であり、社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社です。水との関係が深く、江戸時代は「水分宮(みくまりぐう)」と呼ばれていたようです。地元の人がよくお参りに来られています。粟ケ池、深溝井路、喜志惣村形態、だんじり祭などと溶け込んで、一体感があり、泉州・南河内では最も遅い10月第3週の日曜日のだんじり祭りでは、各町十数台の石川型だんじりが神前で「仁輪加(にわか芝居)」を、奉納します。
日の出、間もない頃。長くひいた鳥居の影が印象的です。
美具久留御魂大神(大国主神)を主祭神とし、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀します。左右殿に同じ神を祀る建水分神社(千早赤阪村)を上手にあるので、上水分社と呼ぶのに対し、当社は下水分社とも言われました。
楠木正成は上水分社と共に下水分社を崇敬し、神領寄進や社殿造営を行っています。 一方、平安末期から神宮寺が神域に建立され、一度は兵火に遭いながらも復興し、室町末には下之坊(しものぼう)をはじめとして11坊を擁する神仏の霊地となっていましたが、天正13年(1585)に、豊臣秀吉の根来寺(ねごろじ)攻めの兵火に焼かれ、神宮寺は再び建つことはありませんでした。 江戸時代に入って、万治三年(1660)年に、75年ぶりに社殿の造営が成り、復興しました。
下拝殿右側に、どっしりと歴史を感じさせる水盆があります。元禄六年(1693)の水盆で、すでに320年が経過しています。水盆の縁には多くの盃状穴(はいじょうけつ)があり、これは後で人為的に作られたものです(ポコポコした穴)。江戸中・後期以降の安産信仰もしくは授かりものすべてに対しての民間信仰か思われます。
盃状穴
ほんとうは、いつ・だれが・何のために、神社仏閣の水盆や石燈籠などに、穴をあけたかよくわかっていません。なぜなら、見た人がいないからです。この講座(富田林市中央公民館 「平成富田林百景+」)の参加者にも、盃状穴があるのを確認した方がほとんどですが、作っているのを見た方はいません。
花崗岩の堅い岩質を時間をかけて徐々にすり減らしていったものと思われますが、実際私が花崗岩と花崗岩で実験したところ、すぐ白い粉は出てくるのですがまったく擦り減ることはありませんでした。削るものが同じ岩質の花崗岩なら相当な時間をかけて徐々に擦っていったものと思われます。仮に鉄の鏨(たがね)のようなもので削ったととしたら、きっと、いびつな穴になってしまうので、この方法で削ったとは考えにくいです。どれも蟻地獄の穴のように滑らかな丸い穴が作られているので 、時間をかけて作ったと思われます。泉州地区中心に辻川季三郎先生のように詳しく調査されている方もおられますが、制作方法については詳しい文献がすくないので、自分で作ってみるしかないのでしょうか。盃状穴がある石造物、特に灯篭や水盆(手水盆)には、製作年月が掘られている場合が多いので、それに盃状穴があれば、それ以降の製作であることが解ります。
民俗学的な伝承によれば、江戸中・後期以降、若い女性が安産祈願のために、夜な夜な誰にも見られないように、ひそかに穴を開けたというような話を聞いたことがありますが、そんな時間に人気(ひとけ)のない場所で、何日も長い時間を掛けて、危険ををおかしてまでするとは考えにくいです。 きっと現在より治安は良くないでしょうから。たくさん痕跡があるのに、わからん状態です。どなたか、このブログを閲覧されている方、教えてください。
次に、盃状穴は同じようなものが全国、全世界にあるといわれています。私が調べた南河内の盃状穴をご紹介します。
まだまだあるのですが、詳しくはその分布も含めて、別の機会でご紹介します。あなたの近くの神社仏閣にもあるかもしれませんので、初詣のときにちょっと手水盆の縁をご覧ください。
これは「朝鮮通信使の絵馬」です。下拝殿右殿に掲げられています。案内板には次のような説明がありました。
「左の絵馬は、天和2年(1682)に友好親善使節として、李氏朝鮮から日本へ派遣された第7回朝鮮通信使の船旅の様子をえがいたもので、描写当時の図柄がほぼ完全な形で当社に残されている。絵馬は縦98cm、横189cmの木製で、3隻ずつ並んだ御座船が上下2段に描かれている。上段の3隻には、通信使であることを示す形名旗(けいめいき)のほか団長の「正使」、副団長の「副使」の船の目印となる「正」「副」などの旗も描かれている。 絵馬には奉納期を「乙亥元禄8月9日吉日」(1695)、奉納者を「喜志櫻井村」(現在の喜志 桜井)と書かれ、11名の名前が記されている。」
この岩にも盃状穴があります。
「すんません。もう200年以上もここでお参りする方々をお迎えしてきた狛犬です。朝、日の出前から、そして暗くなっても、お家(うち)の心配事を相談に来てくれはる御主人や、娘さんの合格祈願に来てくれはる若い奥さんの祈る姿を見てきました。いつの時代でも、祈る気持ちは皆同じ...神さんにお参りする方々の心があるから、私らもここでこうして元気にお迎えしてますねん...これからも、平和な一日に感謝して、ありがとうの気持ちを大切にしましょ...」
資料:2012.12.12.中央公民館 喜志分館講座
「南河内再発見講座~喜志の歴史探訪~喜志ぶら 歴史散歩 館外学習資料」より
(2013.12.16. HN:アブラコウモリH)
中之島佐土原藩の蔵屋敷へ宿泊したのは、琉球使節の方々です。訂正してお詫び申し上げます。
ただ、通信使は、今の大阪の中之島の薩摩藩蔵屋敷又はその支藩の佐土原藩蔵屋敷に到着するのに、内陸部である、ここ富田林の住人がどのような関係で、行列を見てこの絵図を書くことができたのか不思議に思えます。
ご迷惑をおかけしてもいけませんので
一度 中央公民館のほうへ問い合わせしてみます。
ありがとうございました。
アブラコウモリHの記事の内容を引用していただくことは、全く問題ありませんが、アドレスそのものを張り付けされるにあたっては、富田林市立中央公民館の市民講座のブログという性格から、私では判断いたしかねます。
アブラコウモリHはその一投稿者という位置付けになります。
引用がご必要となれば、中央公民館の了解を得ていただくようお願いいたします。
以上、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
実は今度 まさしく この 太陽の道の日9月6日にこの神社でイベントを企画しているものです。
この神社の紹介をしたいな、、と思っていたときに こちらのブログに出会いました。
もし ご承諾いただけるようでしたら こちのブログのアドレスを私の ブログなり、イベントのHPで使わせていただきたいのですが よろしいでしょうか?
よろしくお願いいたします。