アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

ハッピーエンドで終わらせたいけどね

2020年07月10日 | Weblog
    「○警本部です。△さんの検死(検屍)に来ました」
 大学病院に検査入院しておりまして、ようやく退院が許可されました。「退院事務」をしておりましたら、○警本部の司法警察員(検視官)がやってきたという訳です。
 「大学病院へ検死に?」そもそも検死は・・・
 1 検視(漢字にご注意。検死ではありませんで)・・・異状死体に対し事件性の有無を捜査する作業。
 2 検案・・・医師が死体に対し、臨床的に死因を究明する作業。犯罪性の有無に関わらず、外傷性なのか、病死なのか死因を医学的・臨床的に評価すること。
 3 解剖・・・医師・歯科医師等が死因究明のために解剖を施行して死因を特定する作業。
 大学病院で、いったい何が?私は、とっさに「検視だな」と。思いました。なぜそう思ったか?
 自分が検査入院して、次々と治癒の見込みがない、手術すら不可能に近い病気が発見されると、正直、「死んだも同じだな。生きて、家族に迷惑をかけるぐらいなら…」と、何度思ったことか…。「自殺は、絶対しないぞ」と、決意はしていますが、「あぶないなあ…」と、思っています。
 病気を苦にして、自ら命を絶つ人…いるだろうなあと思います。
 だいぶ古い話ですが、ずっと頭から離れないです…93歳の老女が、「お墓へ避難します」という遺書を残して自殺した。これって、…「棄老」ですよ…ね。
 「自殺だから、棄老とは違う」って?では、深沢七郎の「楢山節考」に酷似しているってのは如何?
 自殺した老女は、若い頃「楢山節考」を読んでショックを受けていた。70歳になり、80歳になり、90歳になり…そして被災。楢山節考の主人公、「おりん」は、姥捨て山へ捨てられる日を自ら決めた。自殺した老女も、脳裏におりんが浮かび、自らお墓へ避難した。楢山節考は棄老がテーマです。
 棄老については、「大和物語」「更級日記」「今昔物語集」「更科紀行(←私はこれを読んでいませんが、棄老に関する章があるのだそう)」「楢山節考」「遠野物語」…などに取り上げられています。読んだのは、もう40~50年前ですからどれがどうだったか…ただ、「大和物語」は印象深かったです。老婆を山に捨てた男が、美しい月を見て母親を棄てた後悔に耐えられず、翌日連れ帰りました。なんとかしてくれと願いながら夢中で読み進めて、「よかったぁ!」と思いました。(喜びの度合いは、パピヨンが島から脱出したときと同じくらい…大和物語を読んで、パピヨンを観た人はこの喜びを御理解いただけるかと)
 大和物語では、一度捨てた老婆を連れて帰ったのですが、山に置き去りにされた人たちはそのあとどうしたか…「捨てられた老人たちが、山で共同生活をして楽しく死を待つ」このような続編を書いたこともありました。「山に捨てられて、じっと死を待つ」のが辛すぎて、少しでもハッピーエンドへもっていきたかったもので…。先の短さを悟っているせいか、ハッピーエンドでなければ、読む気にも、観る気にもなりません。
  老女と、おりんが重なります…楢山節考の世界と、現代の日本…似てませんか?
楢山節考:「村の年寄りは七十になると捨てられた」
 現  代:22歳の人が、70歳の時に受け取れる年金の額は、うまくいったとしても支払った額の40%程度にしかならないという試算がある。
 楢山節考:「晩婚が推奨されていた」
 現  代:推奨されてはいないが、晩婚。
 楢山節考:年老いた父や母を口減らしのために山に捨てる。
 現  代:年老いた父や母の介護が大変な負担となっている。
 楢山節考:山へ捨てられることに抵抗した又ヤンは、息子に縄でぐるぐる巻きにされ、谷底に突き落とされてしまった。
 現  代:老人が実子に虐待されるケースがある。
 楢山節考のおりんは、家族の未来を見据えて自ら山へ捨てられる決断をした。現代の日本は、「社会保障と税の一体改革」…今の痛みを回避し続ける…子供や孫やひ孫までツケを回して…。楢山節考のおりんと現代日本の相違点ですね。
 「世の中に貢献出来なくなった。自分で自分の体を意のままに動かすことが出来なくなった。明らかに惚けはじめたと自覚できる」こうなった人は、「棄老の風習があったら楽なのに」と、一度は考えると思います。なぜそんなことを言い切れるか?それは…冒頭でもかきましたが、私自身そう考えるから。でも、自主的に自己棄老はしませんがね…みんなに迷惑をかけてしまうから…。ハッピーエンドじゃない…。