健康というワードが飛びたした時点で、そうでなくなる。
この事に気づけたら本当に健康になれるんだよね
何故なら、本当に健康な人はそこにシフトしていないから。
自分が健康である事に意識が向かないの。
だって健康なんだもん♪
内海さんのFBより
*転載はじめ*
ナンとか療法
この「ナンとか療法」はすべての治療法や考え方について当てはまる。
それは西洋医学だろうが東洋医学だろうが整体学だろうが歯科学だろうが、さらにいえばナチュロパシーだろうがホメオパシーだろうがオーソモレキュラーだろうが、すべてに共通している。
そしてそれを用いている段階で、それは自分のレベルを押し下げていることを知るべきである、という話だ。
この話がスムーズにいく人というのは、本当に数が少ない。
どこまでいってもその誰かは「ナンとか療法」とか「ナンとか法」の支持者である。
それは相当に悲しい。
例えば、西洋医学とその他のものとどちらを選んだ方がいいかといわれれば、それは後者をすすめる。
救急の一時こそは西洋医学の真骨頂であり、他の西洋医学ほどに毒を扱い人を殺す職業はないからだ。
まさにその筆頭が精神科医である。
だが医師の観点からみれば毒というのは避ければいいというものではない。
毒はあらゆる場面で存在し、その毒を必然の一部ととらえることができなければ、真の意味でニンゲンを卒業することはできない。
まさに真の医学というのは真の意味での毒学であるということがいえる。
今の医学はニセ医学であり毒学でさえない。
ではなぜこの「ナンとか療法」がすべてダメなのか?
というより、ダメではないのだ。
それは100点ではないという言い方がふさわしい。
どこにも完璧なものなど存在しない。
どれも私に言わせれば、それらはすべて70点とか80点というレベルでしかない。
そのどれかに固執してこの「ナンとか療法」とか「ナンとか法」が良いなどと、それこそ宗教に固執しているのとレベルは変わらない。
私に言わせればそのすべての「ナンとか療法」の問題点を指摘できる。
それらは所詮その程度のレベルであり、それ以上でもそれ以下でもない。
例えば私は食の話をよくだしているが、一番は無添加、無農薬の食事を食べることだろうか?
それは現代の食事や食のあり方や古典的な考え方を鑑みればかなり良である。
しかしベストではない。
最強のベストは「どんなものを食べてもまったく強靭でいられる」とさらにいえば「何を食べなくても生きていくことができる」というレベルである。
人間にはそんなこと不可能ではないかと多くの人がいるだろう。
しかし少なくとも前者なら人間にだってできる。
後者だって不可能ではないかもしれない。
私は無宗教だが仏陀やキリストはその領域にたどり着いたのかもしれない。
最初から無理だと決めつけている限り、それが訪れる可能性は0でしかない。
私は酒を飲む。
それに添加物が入っていても普通に飲むし、それで体調がどうなろうが何も気にしない。
もう今は何ともないが、アルコールはいろんな意味で体に悪影響を及ぼす。
そんなことは知っているし知った上で選択して飲んでいる。
もっといえば人間が健康を求めるという感覚が私にはない。
いつ死んでもいいし、いつ病気になってもいいし、いつ変な症状が出てもいい。
それは前述のような発想が根底にあるからだ。
アルコールは、咽頭癌、食道癌、肝硬変、慢性膵炎、尿路結石、神経因性膀胱、痴呆症、依存症など様々な問題を起こす。
そんなことは知っていて当たり前である。
それでも飲むのはそれらを理解したうえで、それでも自己が何を考え、何を選択し、何を目的として、自分が決断してその責任はすべて自分が背負う、という思想があればこそだ。
これは実はあらゆるものに通じている。
しかし多くの人はこのプロセスさえもたどっていない。
これは専門家だとか素人だとかいうのは何の関係もない話である。
これはど素人でも必ずその知識にはたどり着くことができる。
たどり着けないのは要するにたどり着く気がないだけにすぎない。
最後に話を「ナンとか療法」に戻すが、あらゆる治療家も利用者も、自己が何を考え、何を選択し、何を目的として、自分が決断してその責任はすべて自分が背負う、というプロセスをたどっているかどうかをもう一度見直すべきである。
私にとってはどの「ナンとか療法」を選んでも前述したように100点ではないが、逆にいえばどの「ナンとか療法」を選んでもらっても全くかまわないのである。
最も重要なのは個としての意志をもつことである。
*転載おわり*
花マル100点
けど、頭のいい人ほど理解し難い事でもある。
暮らしを紡ぐ春夏冬市
12月13日(日)10:00~16:00
ワラムジカの木
(高岡古城公園そばのお家)