1601年(慶長6年)岐阜城が破却され、その代わりとして加納城が作られました。
そもそもこの地には沓井城がありましたが、既に廃城となっていました。
加納城の縄張は徳川家康自身が行ったとされ、近隣の大名を動員した天下普請でした。
名目は娘婿のために造ったそうですが、内心は、織田氏の名残りを廃絶したかったと言われています。
建材は岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられています。
江戸時代の美濃国は30もの小藩に分かれていましたが、その一つの加納藩の藩主の居城となり、明治まで使われていました。
本丸跡が城跡公園となっていました。
野球ができるぐらいの広さがあります。
本丸を取り囲んでいた石垣は残されています。
石垣の上を歩いてみました。
堀は埋め立てられ、駐車場・テニスコート、児童用の遊園地に利用されていました。
現地案内板です。
本丸以外の以降はほとんど残されていないようです。
三の丸は小学校になっていました。
加納城跡公園
岐阜県岐阜市加納丸の内