岡豊城・引田城・勝瑞城・一宮城の訪問を無事終え、帰路、淡路島をにある洲本城に寄ることにしました。
洲本城は、三熊山の山頂に築いた「上の城」と山麓に居館を置いた「下の城」とで構成されています。
下の城では御殿が設けられ、藩の政治を執り行う場でもありました。
まずは、下の城を見て回りました。

史蹟碑が置かれた場所には、現在、洲本市立淡路文化資料館があります。
洲本城は、三熊山の山頂に築いた「上の城」と山麓に居館を置いた「下の城」とで構成されています。
下の城では御殿が設けられ、藩の政治を執り行う場でもありました。
まずは、下の城を見て回りました。

史蹟碑が置かれた場所には、現在、洲本市立淡路文化資料館があります。


洲本市立淡路文化資料館
所在地: 兵庫県洲本市山手1-1-27
開館時間: 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日: 月曜日(月曜日が祝休日のときは、翌平日が休館),年末年始(12/2~1/4)
入館料: 大人 500円,高校生・大学生 300円,小学生・中学生 100円
無料駐車場があります。
また、続日本100名城スタンプは受付で押すことができます。
下の城跡は官公庁として使われてるようで、検察庁

税務署


裁判所の庁舎が置かれています。
この裁判所の写真ですが、後ろの山に模擬天守が見えます。

つまり、この頂上に上の城があったわけです。

足湯・潮騒の湯

感染防止のため休業中かと思いきや、調べてみるとコロナ禍以前から営業していないみたいです。

3月20日でしたが、桜が咲いていました。
もっとも、愛知に戻ったら、同様に咲いていました。
今年は、全国的に開花が早いですね。

お登勢の像
「お登勢の町すもと」と売り込みをしていました。
なお、このお登勢は寺田屋の女将ではなく、船山馨の小説「お登勢」の主人公です。
知りませんでした。

お登勢は、庚子事変に巻き込まれてしまいます。
ここで庚子事変について簡単に触れたいと思います。
関ヶ原の合戦が、蜂須賀正勝(小六)は、阿波国・淡路国に加増されましたがこれを固辞。
息子の蜂須賀家政に阿波を、また正勝と義兄弟の契りを結んだ稲田植元を客将として招き淡路国を知行地として任せました。
しかし蜂須賀氏は幕藩体制下で次第に稲田氏を家臣として扱うようになり軋轢が生じるようになります。
さらに、稲田家は明治維新で新政府側に協力したにも関わらず平民とされたために淡路を阿波藩から分藩独立することを画策します。
それに動きに対しで蜂須賀氏側が一方的に稲田氏側を殺害したのが庚子事変であり、蜂須賀家と稲田家の確執は決定的なものとなりました。
結局、1876年に淡路は阿波と再び分裂し、兵庫県に編入されることになりました。

櫓台

すぐ近くに海岸があります。

このあと、車で上の城へ移動しました。
この裁判所の写真ですが、後ろの山に模擬天守が見えます。

つまり、この頂上に上の城があったわけです。

足湯・潮騒の湯

感染防止のため休業中かと思いきや、調べてみるとコロナ禍以前から営業していないみたいです。

3月20日でしたが、桜が咲いていました。
もっとも、愛知に戻ったら、同様に咲いていました。
今年は、全国的に開花が早いですね。

お登勢の像
「お登勢の町すもと」と売り込みをしていました。
なお、このお登勢は寺田屋の女将ではなく、船山馨の小説「お登勢」の主人公です。
知りませんでした。

お登勢は、庚子事変に巻き込まれてしまいます。
ここで庚子事変について簡単に触れたいと思います。
関ヶ原の合戦が、蜂須賀正勝(小六)は、阿波国・淡路国に加増されましたがこれを固辞。
息子の蜂須賀家政に阿波を、また正勝と義兄弟の契りを結んだ稲田植元を客将として招き淡路国を知行地として任せました。
しかし蜂須賀氏は幕藩体制下で次第に稲田氏を家臣として扱うようになり軋轢が生じるようになります。
さらに、稲田家は明治維新で新政府側に協力したにも関わらず平民とされたために淡路を阿波藩から分藩独立することを画策します。
それに動きに対しで蜂須賀氏側が一方的に稲田氏側を殺害したのが庚子事変であり、蜂須賀家と稲田家の確執は決定的なものとなりました。
結局、1876年に淡路は阿波と再び分裂し、兵庫県に編入されることになりました。

櫓台

すぐ近くに海岸があります。

このあと、車で上の城へ移動しました。
下の城の見学時間は資料館と合わせて約40分でした。
灯台下暗し・・・汗
官庁街に利用されているのでわかりにくいかもしれませんね。前回訪れたときに下の城については知ったのですが、時間の都合で寄りませんでした。実際に訪れるのに10年かかりました。