デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ちょっとした機会から、日本で制作されたTV番組(物語)を、音声は日本語しかし英語字幕が表示される状態で見るという奇異な体験をした。

その番組はちょっとオカルトが入った内容で、時に凄惨な描写があるもののモンタージュを意識したような独特の映像タッチや、セリフの言い回しで人気がある作品のようなのだが、私が見たものに限っては、日本語の音声のスピードが1/2で、通常スピードで動く登場人物の口に合わせた英語字幕はそれと同期していた。
この作品のエピソードは、土地勘がある筈の所在地めざし、そこへ向かっても何故か辿り着けず、どういうわけか携帯電話のGPS機能すら突然不良になり、その原因がこの世のものではない、かたつむりのお化けの存在のせいであり、目的地に辿り着くにはいかにすればよいか?というところで終っている。
しかし、私は作中では5分の説明ですら長く感じられそうな、これだけのエピソードを、1時間かけて見たのである。なぜそんな手間をかけたのか、それはゆっくりすぎる音声を聞きながら、展開を把握するため必死に登場人物の口に合わせた英語字幕を読み、時には英単語を調べるために一時停止を繰り返していたからである。
だが、その視聴方法は思わぬ効果を私にもたらしたのだ。というのは、このエピソードのスタッフロールが流れる直前に、恐るべきセリフがしっかりと、"1/2のスピード"で聞き取れたからだった。

「 わ た し は 蝸 牛 の 迷 子 で す か ら 」

私は正直、背中にゾクっとするものを覚えた。

これをお読みのみなさんは、「どうして音声がおかしいのに、すぐに正常な分で見直さなかったのか?」と思うかもしれない。(大丈夫か?といわれるかもしれないが、)実は私は「おかしい」とは思わなかったのだ。
なぜならこの物語の冒頭にあからさまに「蝸牛」という言葉が、意図的なサブリミナルとして用いられていたからだ。私はこのエピソードの作者が視聴者に"かたつむりの視点"を提供したのだと解釈した。映像の方は人間の生体としてのスピードを、音声の方でカタツムリの生体としてのスピードを、24分ぐらいの時間の間に"同時に"表現したのではと思ったのである。つまり、この場合の字幕で繰り広げられた会話は、視覚のみにしか伝わらなかったわけだから、カタツムリからすれば、人間の言っていることなど、大した関心事項ではないと、示唆していないかと。

おそらく私は、カフカ作品、村上春樹作品、ヌーヴェルバーグの映画、ミステリー・ゾーンなどの幻想怪奇ドラマ、SF小説・ドラマ、某超監督の影響もあって、音声の不良のものを見てすら、変な感覚(不快ですらある)を覚えつつも、それがたまたまストーリーを予告するサブリミナルと(私の中で)合致した、必要以上に難しい解釈をしてしまったのだろう。これら↑の内容は、最近の言葉で言うと「電波」なことを書いてしまっているように思われるかなぁ(笑)。
ところで、『ドン・キホーテ』で、ドン・キホーテが風車や羊の群れに突撃する話は有名だが、彼が突撃したときの気持ちって、今の私のこんな感じだったのかもしれない。もちろん、現実世界で車に乗っているときにそんな気持ちになるのは、危険きわまりないことは分かっている(笑)。しかし、今回の神がかり的?な視聴エラーによって私の中で広がった拡大解釈は、私だけの稀有なしかし何物にも替え難いパラダイムシフト体験であったことは間違いないと思う。高速で移り変わるモンタージュが鑑賞者に意味を与えるならば、低速の描写で鑑賞者に意味を与えられる可能性も充分に考えられるではないか。

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