デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『アフリカの日々』を書いたイサク・ディネセンは短編も書いている。『バベットの晩餐会』は短編の中でもとりわけ輝く一編ではなかろうか。

『バベットの晩餐会』は映画にもなっていて、1987年公開・1988年度アカデミー外国語映画受賞作である。それを見た感想である。
私は先月、小説を原作にした映画で、原作に肉薄した映画はこれまで見てきた中で『ベニスに死す』しかないと書いたが、『バベットの晩餐会』も原作に肉薄した、いや超えてるかもしれない作品だと思った。(やっぱり文芸ものの映画には、長編小説よりは短編小説の方が圧倒的に向いている!?!?)
映画は、言葉に表し難いが、ジワジワっと感動を覚える作品である。作品の雰囲気は辺境の厳しい自然の中にある敬虔な村人たちのごとく、言葉は少なめで常に自然の音しか聞えないような感じなのだが、だからなおのこと牧師の説教や登場人物たちの厚い心がこめられた言葉、手紙の内容がジワリと心に響く。
しかしその内容はかつて宗教的権威をやや強めに用い、村に尽くした牧師の説教の内容が繰り返されているに過ぎない。しかし、牧師の二人娘フィリッパとマチーヌを巡る人々の、各々の生涯、何十年もの時を経て再会したときの感慨のみならず、若い頃にかつて後悔したかもしれないエピソードがあればこそ、昔の牧師の言葉が、個々の経験を通し心の中に甦り生きるのである。
バベットが催す晩餐会は、村人やゲストにかつての牧師に思いを馳せるお膳立ての役割を演じたわけだが、その場面で料理人にとっての最高の仕事というのは、晩餐会の出席者の舌を満足させるだけでなく、料理によってその場の空気を和やかに心温まるものにするという理想も描かれている気がする。
ところで、映画には原作にない、ちょっとしたシーンがユーモアに満ちていておもしろかった。村の人々(信者)はおおよそ世俗の幸せとは縁遠い人たちとして描かれていて、姉妹も年金の利子や自分たちの料理を貧しい人々に分け与えているという設定の下でのちょっとしたシーンなのだが、バベットが村にやってきて何年も経ってから、バベットが2週間ほど暇をもらい旅に出ている間、姉妹の作ったかつて食べ慣れていたはずの料理を口にした貧しい人の表情が曇るのだ。
この人間の性(さが)は、晩餐会が始まる直前の出席者の決意

「…気高い精神的なことを話すほかは、舌を使わないようにするのだ。そして味覚のほうは、働いていないように振舞うのだ」

すら無言のうちに忘れさせもする。いい料理が人の心身にもたらす影響は思う以上に大きいのであった(笑)。

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原作者の名の日本語表記はディーネセンやディネーセンもありますが、弊ブログでは実際の発音に近いディネセンと表記します。

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