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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ヨゼフが二度目に売られ、ポティファル(ペテプレー)の屋敷に入ってポティファル夫人を見かけるところまで読了。
作品の中でヨゼフがエジプトに連れて行かれる際、道案内を買って出るのが、前回触れた「野の男」なのだが、今にして思えばこの「野の男」の用い方は、のちの『ファウストゥス博士』のアードリアーンを支援する婦人の前身ぽいなと思える。
「エジプトのヨゼフ」の前半は、物語の舞台としているエジプトの姿、ヨゼフが聞き知ってはいたものの初めて目にする現実のエジプトの説明に費やされている。正直、エジプトの姿の描写は読んでいて無聊(ぶりょう)になってくるが、エジプトに凝然としている神々はヨゼフの信じる神によって禁ぜられた事物であるも、彼にとっては禁制のものではなくて、むしろ深い意味をもち、それはいずれ父ヤコブの体験の再来として彼が物語を成就させるためのいわば条件(環境)であることが読み取れるので、欠伸をこらえても読み通す必要があるように思った。
エサウから遁走しラバンに仕えるヤコブ、高慢な振る舞いによって兄弟から井戸に落とされ、引き上げられて後エジプトで仕えるヨゼフ、といったふうに物語は回帰するが、物語は再現してかつ変化もしているのである。そこは物語が退屈なものでない秘密があるように思う。
この作品には目頭を熱くさせる場面がいくつかある。これまででいえば、一度目はラケルの死の場面、二度目はヨゼフをエジプトにつれてきたイシュマエル人の長とヨゼフの別れの場面である。ヨゼフは実父ヤコブと、イシュマエル人の長という二人の「父親」の元で過ごしたのだ。ヤコブが理論の教育をほどこしたなら、イシュマエル人の長は処世術も兼ねた社会労働と実践の教育をほどこした。ヨゼフはエジプトでの栄達を助ける素養を身に着けたわけだが、それでも運命は彼に過酷な試練を与えるのは知られた話である。その知られた話をマンがいかに描くか、楽しみにしたい。

それにしても、この作品が質実剛健で重厚なものであるのは今更いうまでもないことだが、翻訳で使用されている漢字も、文の前後から意味はおぼろげに分かるもののその都度辞書を引かねば分からないようなものが多い。以下は私が読めなかった漢字、読めても自分の中で意味があやふやなものである。

乃至は、爾、摩す、宥める、蓋し、齎した、汀、土瀝青、乾溜、籍り、開豁、鈎=鉤、驥足、犇く、惹起、糶り、爛れる、虧ける=欠ける、熄んだ、凋む、羹、抓る、蒜、献酬、裘、腿、襁褓、嚏、嘉賞、汚穢、黍、、榛、掩われ、靡かす、蚯蚓腫れ、賤しい、愜え、殿り、違背、膏、捗々しい、遽しく、昏み、霞む、捥ぎ、嗣子、肯綮、大綱、鹹水、糾明、蒲柳、光耀、灌奠、橄欖、盈虧、膠、頤、掛け毛氈、君侯、碾割麦、碾磑、譴責、粗朶、粗忽、槲、礫、砂礫、紊乱、単綴、曲飾、覿面、肯わす、喧しい、赫々たる、然々、需める、厳か、紺青、燦く、脆弱、懦弱、徒ら、敢ない、夷狄、余燼、防砦、蜿蜒、胸牆、障碍、=怱、狒々、鄭重、払子、瞞着、軒昂、愈々、堂宇、繋縛、仄か、屡、容喙、阿諛、擡頭、憐愍、潺湲、貪婪、羈絆、同衾、啖う、驕慢、縋る、凭せて、呶鳴り、喋々と、扈従、艱苦、辞柄、牡雞、刳る、肯綮、背馳、噤む、違背、嘉納、忽ち、遽しく、、些か、逐電者、奠酒、口誦、怱しい、即ち、悟性、揺蕩う、蘆、葦、桎梏、酋長、圧搾、栄耀、霰、危懼、柳薄荷、縊る、櫓、播種、緡、天鵞絨、繋、淫奔、飢渇、悖徳:背徳、焦躁、疎か、推輓、征旅、媾合、聚落、実罅、跑歩、囲壁、恬淡、桁環、目睫、交叉、鐶、技倆:技量、閲せる、囲繞、隻眼、神苑、都邑、突兀、放縦、自若、坐臥、承けた、雑沓、陋巷、長押、曲柄杖、沼沢、薫香、唱詠、供饌、欣喜雀躍、一梃、舳、旈旗、点綴、権門、櫛比、凝然、舷、枯死、紙萱釣形、楚々たる、輪奐、往還、爾余、蝟集、罷免、讒訴、襞取り、島嶼、大廈、坐輿、嚠喨、無聊、魂消る、挙措、涙嚢、吝か、没薬、馭して、琺瑯、悍馬、揣摩、膳夫、蹲って、疎隔、軽侮、忌憚、首魁、讒言、付和雷同、輻に、経師、臥牛、…。

いじわるなようだが、意味は書かない。
君はこんなのも読めんのか、と言う人もいるかもしれない。逆に今じゃ普段使用しないから覚えるだけ無駄という人もいるかもしれない。ただ外国人から日本語で「健啖家ってどういう意味ですか?」と訊ねられ、日本人の若者が「そんな言葉は日本語にない」と即答してしまうようなことは、このご時勢にあればこそ少なくなって欲しいものだ。



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