デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



近代以降の小説の特徴として、物語中の時代設定がいかなるものであれ、人間の内面の動きや日常生活を主なテーマとしているところがある、と思うのだが、『ヨゼフとその兄弟たち』も人間の内面の成長の促進が思いのほか慫慂としていて、いざというときには呪わしい愚鈍さしか発揮しないところが、余すところなく述べてある作品であるといえよう。
ヨゼフは一度、自らの傲慢で軽率な性格から厚顔な振る舞いに出て、兄たちから負の恨みを買って井戸に落とされるが、エジプトに下りそこで成人し立身してなおムト=エム=エネトとの関係がこじれ取り返しのつかない事態になってさえ、罪悪感と責任感こそ覚えてはいても、自らの好奇心と軽率さについては彼は律しようとはしない。それゆえ、彼はまだ若いのだ。
ムト=エム=エネトから迫られて、ヨゼフが彼女を擯斥(ひんせき)する7つの理由が、事件が起こる前に遁辞のように書かれてあるが、それはちょっと苦しいかも?と正直思う。情事が未遂となり、それからヨゼフが自省して普段の生活では周囲におおっぴらにしない信念を、7つの理由として理性的に整理したのなら分かるが、情事が起ころうとする際に長い弁舌の中にそれを盛り込むのは、小説とはいえ無理があると思った。(まぁ情事が起らんとするところの二人の長セリフの応酬自体がありえないと思うので笑えるといえば笑える)。
ポティファル邸でのヨゼフの立身と出世は、自らの好奇心と軽率さ、そしてエジプトの神と自分の神との力くらべの試行の末、絶たれ、彼はまた窩(あな)に落ちるその過程は、凝り過ぎているぐらい凝っているのだが、聖書にあるとおり、彼には神がついていて、その後(というより結局は)窩に落ちる前の境遇よりもはるかに豊かで多くのものを享受するのだが、神による一度ヨゼフを打ちのめし再び引き上げてやるという「ご意向」のつじつまを合わせるために、マンも作品を描きながら苦笑しつつ、仕方無しに神の弁護を引き受けているような感じが出ていておもしろい。「これだから神は困るんだ、でもいてくれないとそれはそれで困る」と毎度思っていたのかもしれない。

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