デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



旧約聖書の「創世記」には、ポティファルが自分の家のすべての財産をヨゼフに管理させるまでの詳細、推輓されるきっかけになった出来事が描かれていないので、『ヨゼフとその兄弟たち』では作者の旺盛な想像力でもって、その場面が描かれている。
庭園でポティファルに長広舌を打つヨゼフの場面は見事だ。言ってる内容は植物の交配にかこつけたエジプトの神々と自分の神が両性を具してなお孤高にある姿を畏怖し追従して、ポティファルの心をくすぐるという話しなのだが、ヨゼフはテーベへの遡上で得た見識をふんだんに生かし、ものは言いようの典型でポティファルのハートをがっちり掌握する。マンの筆にかかれば聖書には記述のない場面が、さもあったかのようになるからおもしろい。

ところで、マンは物語のなかの登場人物を、登場させる度にその身体的特徴や性格的特長を、くどくどしいほどに書き入れている。

自分の力と同時に自分の誤りやすい性格をも意識している

「そうじゃない。聞いてくれ、兄弟たち、俺は蛇だ蝮だと呼ばれていて、なんとか頭を利口にはたらかすこともできるんだ」

両目の下にとてつもない大きない涙嚢が盛り上がって、目を下から圧迫


これらは個々の登場人物が登場する際、いつも用いられているその人物描写の頭に付される登場人物の特徴なのだが、長編小説ゆえに特徴を間をおいてなんども繰返されると、読み手の中に人物が個性のある生きた者として感じられてくるから不思議だ。
最も特徴をくりかえし書いている対象は、主人公ヨゼフと神である。根が孤独で貞潔を熱望するゆえに嫉妬深い神については、ヨゼフの雇い主であるポティファルも「痛ましい矛盾」を感じていると、マンはエジプト人の口から語らせている。
しかしながらヨゼフは自分がエジプト人と化していく現実とともに、エジプトの神々や祝祭と距離は置きつつも、自己と自己の種族が決してこの世では唯一無比のものではないという一事を認め、禁ぜられた事物も自分にとっては禁制のものでなく、むしろ深い意味をもつとし、そこに(神の)打算と寛恕とそれを拠にした留保が加わって、彼を大人へと成長させていく現実的な神を考え出そうとしているところに、私は「くりかえし」のなかにも変化があるように感じる。信仰の対象がなんであれ、人は自分がそれをやるように生れついたところのものに自分を仕上げるため、心を引き締める彼の決意と行動は一読に値する。

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