デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



И・クラムスコイ「死の床のドストエフスキー」(1881)

ジッドは、『悪の華』序文で、ドストエフスキーと同じくボードレールも、自らの内に「遠心力でものを崩壊させる」<ⅩⅦページ>力があるのを察知し、それが自分の創作力と拮抗しているのを感じていたのだと強調している。    [J17,1]

博物都市パリ(1)で、ベンヤミンの『パサージュ論』で触れられているフーリエの夢と、ドストエフスキーの夢について書いたが、記事のアップ後、そういえば『パサージュ論』でドストエフスキーについての断片とかあったっけ?と気になり、本と自分でとったメモを見返してみた。(上の断片はそれでたまたま見つけた分というだけである。)
そして、ドストエフスキーとベンヤミンにはなんのつながりも見出せないのだろうか、見出せたとしてもこじつけ妄言の類に陥るのが関の山かなと思っていたら、昨日の記事を書いているとき、次の断片に目が行った。

新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるのは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群衆という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を潤すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群衆」は、七〇年後に民族協同体〔ナチズムを示唆している〕が流し込まれる鋳型なのである。自分が目覚めていること、そして一匹狼であることを自負している遊歩者は、その後に何百万人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であったという点でも、同時代者に先んじていた。    [J66,1]

この断片を見たとき、過去をつかみ出そうとする『パサージュ論』にベンヤミンの生きた時代との同時代的テーマが混ざっていて、あたかも未来を予見するような珍しい断片ではと思ったのである。そして、何故だか、私の中ではこの断片が、ドストエフスキー最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の裁判の結末とつながってしまったのである。
もちろん両者のベクトルは違う。ベンヤミンは19世紀を夢を想起させる形で暴こうとし、関心は人より「時代」にある。ドストエフスキーは(19世紀の)現在を描き、人間の謎を解こうとすることで未来を見つめた、なので当時起こりつつあったことを鋭く観察することにより予言的な言葉が多くなったが、その内容たるやソ連で起こる社会主義国家の陰の面や日本で起こった内ゲバなど、実際に起こったことが多い。

ただ、昨日の記事を書いているとき、両者の著述に何か共通するものがあるという感覚は私の中で残った。
そして、とびっきりの遊歩者である19世紀人のボードレールが目ざめているならば、陪審員である民衆が有罪を宣告する『カラマーゾフの兄弟』の語り手の存在は、目ざめていないといえるのだろうか?と思ったのである。おそらくその前提として、ドストエフスキーは帝政ロシアに蔓延しつつあった無神論に対し、ロシア正教の信仰を基にした民衆の(信仰や精神)力がロシアを救うと書きはしたが、最後の大作の結末のようにドストエフスキーは最終的には民衆のことを信じていなかったのではないか、という私なりの問題意識がひらめかせたのだ。
私はこう思う、群衆が誤った方向にものごとが進みつつあることを気づけるのは、ベンヤミンの表現では群衆の中に身を潜めている遊歩者であり、ドストエフスキーは小説の中の事情通の語り手なのだと。互いに共通するのは遊歩者の視点と研究心である。ただ、ドストエフスキーの場合は、出獄後や『罪と罰』以降の目ざめつつある半覚醒状態、と注をつけておく必要がありそうだが。

夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまで死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。    [K1a,2]

ベンヤミンの断片では民族協同体が流し込まれる鋳型であるのが群衆なら、ドストエフスキーの書く「正しき人」に誤った判断を下すのが、ロシアの希望であり救いの信仰をもっているはずの民衆である。つまり、大衆というのは真理を見抜けず思いのほか間違えるし、たとえ誤った方向にものごとが進んでも一旦進みだしたら、その流れを止めることは容易ではない。ドストエフスキーもベンヤミンも、群衆の恐ろしさにいち早く気づき、最初に犠牲になった一匹狼を自負した遊歩者だったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )