デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



風で水面に波が立つ

一旦、関ケ原町歴史民俗資料館に戻り、徳川家康最後の陣地跡へ。



この場所については小さい字ではあるが写っているとおりである。
解説板に取ってきた敵の首の実検とあるが、それを見て「目付」という役のことを思い出した。目付は、戦終了後に敵の首を実検するだけでなく、戦のさなかでも高台から、

味方の誰々の部隊が(作戦通り、命令どおりに)どういった活躍をしているのか

目を光らせて、逐一記録している役でもあるのだ。
兵たちにとっては、戦において特に勝ち戦においては目付にアピールすることが重要だった。なにせ戦終了後の褒賞を得ること、引いては石高(こくだか)のベースアップなどその後の生活の収入に響いてくるのだから。
それは総大将が率いる直属の兵隊たちだけでなく、(家康と)同盟を組んだ大名たちとっても同じで、目付にアピールすることは自分の藩のその後の運命を決める性質をもっていた。つまり「家康殿、これだけ活躍したのだからこれからも我が藩とは昵懇の関係でいさせてください」というわけである。
また、歴史の授業および歴史をテーマにしたTV番組でもよくとり上げられるとおり、関ケ原の戦いでは、以前は豊臣家の忠臣みたいな大名・武将だったけど、時勢を読んだり家康の調略によって関ケ原の戦いから家康に味方した勢力も多い。
なので、そういった大名・武将たちは、家康にアピールしようと懸命になって戦の功を競い戦うわけである。その中でもっとも果敢に活躍したことで有名なのは福島正則であろう。


徳川家康最後の陣地

ところで、関ケ原の戦いの前哨戦とも呼ばれているものに真田昌幸と徳川秀忠の上田城の戦いがある。家康としては関ケ原に臨む前に、何かと軍略に長けてやっかいな真田昌幸を、東軍要(かなめ)の隊ともいえる秀忠の軍に叩かせ、それから親子ともども万全を期して西軍に対峙するつもりが、秀忠は真田昌幸攻略どころか、少なくない兵を失ったあげく関ケ原への到着が遅れた、その(秀忠が)遅れた遠因(ある意味誘引)となった戦いである。
関ケ原の戦いは家康の思ってた以上に早く開戦してしまったこともあり、秀忠の遅れは、目付の目に後(のち)に外様大名となる武将たちが、戦功をたくさん持っていく場面を映らせることとなった。つまり家康は「外様」から貸しをつくられてしまったのであった。
この最後の陣地で家康は、本音としては自分たちと譜代大名たちで日本を治めたかったのに、「外様」に借りができてしまったことで権力の掌握が遅れるであろうこと、権力を掌握してなお面倒くさい外様大名に目を光らせつつその後の時代を治めなければならなくなるであろうことを苦々しく思いつつ、目付ともども敵の首を実検していたのかもしれない。

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