デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ルーヴル宮の中庭ナポレオン広場へ

集団の夢の家のもっとも際立った形のものが博物館である。博物館には、一方では学問的な研究の、他方では「悪趣味の夢の時代」の要請に応えるという弁証法があることを強調しておくべきだろう。「ほとんどすべての時代が、それぞれの内的な姿勢に従って、特定の建築課題を発展させているように見える。ゴシックの時代は大聖堂を、バロックの時代は宮殿を、そして一九世紀初頭は、後ろ向きに、過去にどっぷり浸かる傾向があったために、博物館を発展させた。」ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』三六ページ。私の分析は、過去へのこうした渇望を主対象とするものである。博物館の内部は、私の分析では、巨大なものになってしまった室内ということになる。一八五〇一八九〇年の間に博物館に代わって博覧会が行われるようになる。この両者のイデオロギーの基盤の違いを比較すること。    [L1a,2]

近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなくぼんやりものを見ている者ぐらいだ。技術的に新しいものは、もちろん初めはもっぱら新しいものとして現われてくる。しかし、すぐそれに引き続いてなされる幼年時代の回想の中で、新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。どんな幼年時代も、人類にとってなにか偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。どんな幼年時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱くなかで、あらゆる種類の発明や機械装置、つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。自然の領域では、好奇心と象徴世界とのこうした結びつきを初めから持っていないようなものはなに一つとしてない。ただし自然においては、この結びつきが新しさというアウラの中でではなく、慣れ親しんだもののアウラの中で作られるのである。つまり回想や、幼年時代、夢の中で。■目覚め■    [N2a,1]

ルーヴル宮のガラスのピラミッドについて。ベンヤミンのいう"集団の夢の家のもっとも際立った形のものが博物館"、その博物館の前に現代世界の技術を用いて建てられたのが"神話のアルカイックな象徴"である「ピラミッド」であるというのは、正直できすぎであろう(笑)。エッフェル塔は美としての良し悪しはともかく、過去未来の象徴のようなところがあるが、ガラスのピラミッドはノスタルジーどころか古代の完璧な形状やその思想そのものを現代的アレンジを施して復旧させたようなところがあり、『パサージュ論』うんぬんなしにパリの街にフィットしないという奇異を感じないでいる方が無理かもしれない。
逆にいえば建築デザイナーとしては、してやったり!なところがあるのかもしれない。ベンヤミンのことを踏まえてのことかそうでなかった分からないけれども、私からすればベンヤミンに対する諧謔のように思えてしまう(笑)。

ちなみにガラスのピラミッドが建つ前のルーヴル宮は、その半分が大蔵省として使用されていた。しかしルーヴルが美術館としての魅力でより多くの客を呼び込むために、大蔵省は移転することになった。
そして大蔵省移転後、ルーヴル宮を美術館として現在の外観を生かしつつ、展示スペースも増やしより多くの来館者に対応するために、ルーヴル宮は増改築されることになった。
ガラスのピラミッドが建つ前になされたことは、中庭の整理であったが、その中庭の地下は中世の要塞として使用されていた頃のルーヴルの土台であったので、中庭の整理はいわば発掘作業であった。増改築のための課題は、中庭の地下を活用して中世の土台を残しつつ、展示品や人の移動のための有効なスペースを確保するというものになり、さらに地下への採光も考慮に入れなければならなかったようである。
その点、増改築にガラスを使用したのは巧いと思うし、おかげで機能的なルーヴル美術館の入口はいつも明るい。また、本物のピラミッドと比率がほぼ同じのガラスのピラミッドは、ルーヴルにあって最古で最新というおもしろい感覚まで味わわせてくれる。


ガラスのピラミッドは夜に映える

私の思うベンヤミンに対する諧謔については、もう一つ、ベンヤミンより10年程年上のジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に対し、もしベンヤミンが『ユリシーズ』を読んでいたならどう思ってたろう?といった興味ももっている。
『ユリシーズ』(1922)はホメロスの「オデュッセイア」のパロディで、1904年6月16日木曜日のダブリンを一人のおっさんがうろうろするだけの話なのに、その描き方は人間の意識の気まぐれでぐちゃぐちゃな働きや外から受ける刺激や感覚、その反応を逐一表現しようとしている。さらに、ストーリーを構成する各章には小説のあらゆるジャンルのパロディを配置し、それが絵巻物のごとく展開され、その絵巻物では英語という言語の古文から現代文の文体を駆使し、あげく映画に先駆けてモンタージュ手法に相当するような行間をうまく用い文芸で視覚的なものとして表現してしまうなど、人間の感覚や意識の表現に加えアイルランドやイギリスと古代ギリシャの歴史と文化の隠喩を詰め込んだ、それでいて描かれているのはあたかも平凡な「1904年6月16日木曜日のダブリン」の再現だけに他ならないといった、極めて読むのに面倒くさい、ある意味最初で最後の形態を持った小説である。
ジョイスからすれば、16・7年前のダブリンのとある一日を極めて独創的な方法で描いただけの小説なのかもしれないが、ベンヤミンが作品を読んでいたなら、(19世紀を扱った内容ではないにしろ)「やられた! ひだを小説で表現されてしまった! ガラスのピラミッドを建てられてしまった!(笑)」と思ったかもしれないと私は思っている。

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