デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



エッフェル塔。夜になると一時間に一回キラキラ電飾の演出がある

私個人の短いパリ経験では、夜に一人歩きしても怖いと思ったことはないけれども、やっぱり推奨はしないというべきだろう。夜にレストランやライトアップされている施設・観光地を訪れている人は、大抵二人連れ以上であった。

さて、19世紀のパリと『パサージュ論』のことを考えていて、『パサージュ論』のクライマックスの一つとしてエッフェル塔や今のルーヴル宮のガラスのピラミッドに触れようと思ったのだが、偏屈な意識がもたげてきて、できすぎで、これこそ紋切り型ではないか、いやエッフェル塔に触れてもまだ何か足りない、とか何故だか根拠もないのに思ってしまうのであった。
ちなみに『パサージュ論』には私の知る限り

エッフェル塔について。「はじめは全員から抗議を受けてはいたが、いまだに見るにたえない。しかし、無線の研究には役に立った。……この万国博覧会は、鉄骨建築が勝利をおさめる場になると、人々は言った。むしろその敗退の場になったと言うほうが正しい。」デュベック/デスプゼル『パリの歴史』四六一―四六二ページ    [F4a,4]

「一八七八年頃、人々は鉄骨の建築に救いを見出したと思った。サロモン・レーナック氏が言うような、垂直への憧れ、中身の詰まったものに対する空っぽなものの優越、そして外から見える骨組みの軽やかさは、一つの様式が生まれようとしているという期待を抱かせた。この様式の中に、ゴシック精神の主要なものが、新しい精神と新しい素材によって蘇るかもしれないというのである。〔ところが〕技師たちが一八八九年に機械館とエッフェル塔を打ち立てたとき、人々は鉄の芸術に見切りをつけてしまった。だがたぶん、その判断は早すぎた。」デュベック/デスプゼル、前掲書、四六四ページ    [F4a,5]

エッフェル塔について。「現代もっとも有名なこの建物の特徴といえるものは、巨大な図体にもかかわらず、……何か小さな置物のような印象を与えることであり、その理由はどうも……時代一般の低俗な芸術感覚が紋切り型根性とフィリグリー技術〔細い金銀の針金で作る透し網細工〕のレベルでしか考えることができないためである。」エーゴン・フリーデル『近代の文化史』Ⅲ、ミュンヘン、一九三一年、三六三ページ    [F5a,7]

エッフェル塔建設に対する抗議文。「われわれ、作家、画家、彫刻家、建築家は……脅威を受けているフランスの芸術と歴史の名のもとに、無益で醜悪なエッフェル塔をわが国の首都のまさしく中心部に建設することに抗議するものである。……これは、その野蛮な大きさによって、ノートル=ダム、サント=シャペル、サン=ジャック塔、など、わが国の建造物すべてを侮辱し、わが国の建築物をすべて矮小化して、踏み砕くに等しい。」ルイ・シェロネ「博覧会の三人の祖母」に引用(『ヴァンドルディ』一九三七年四月三〇日号)    [F8,2]

「風の舞うエッフェル塔の階段、いやもっといい例としては、運搬車橋〔Pont Transborder〕の鉄骨の足においてこそ、われわれは、今日の建築の美的な根本体験に出会うのである。空中に張られた細い鉄骨の網のあいだを物が、舟が、海が、家々が、マストが、風景が、港が流れていく。それらは明確な輪郭を失い、流れ下るなかで絡まってぐるぐる回り、同時に混じり合う。」ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』ライプツィヒ/ベルリン、七〇ページ。これと同じように今日の歴史家も、細いけれども重みに耐える骨組みを――一個の哲学的骨組みを――作って、過去のもっともアクチュアルな側面をその網の目に引き込まねばならない。だが、新しい鉄骨構造が都市の壮大な風景を見られるようにしてくれるといっても――ギーディオン、図版六一―六三参照――、それは長いこともっぱら労働者と技術者のみに開かれた風景であった。同じように、ここで今までにない側面を見ようと思う哲学者は、自営の労働者、目をまわすことのない労働者でなければならない。場合によっては孤独な労働者でなければならない。    [N1a,1]

といった断片がある。
エッフェル塔の歴史については旅行ガイドブックに載っているので詳しくは触れない。もちろん、建てられてからの酷評や塔が存続する顛末その他に関する詳細は、ガイドブックでもおもしろく読めるものがある。その内容を差し置いてまで、この記事で私のいいたいことは、エッフェル塔はパサージュ衰退後のサン・シモン主義の頂点をなす建物のように思っているということだ。
その理由はこの塔が1889年に開かれる万国博覧会の客寄せとして建設されるまでの過程にある。塔の名前になっているギュスターヴ・エッフェルは1832年生まれ。1855年に第一回パリ万国博覧会が開催され、製鉄技術の振興がブームとなった頃、彼は若い橋梁設計技師であった。
ところで、そのブームは、サン・シモン主義者をブレーンにした「産業皇帝」ナポレオン三世の積極政策を反映したものだった。サン・シモン主義については、こちらで触れたので繰り返さないが、とにかく才能のある技師ならばすぐに大きい案件を任せてもらえる機会があった時代であった。
ナポレオン三世については今なお誤解されていることが多いけれども、パリの大改造やフランスでの万国博覧会の開催と絡めてエッフェル塔が建てられるまでの積極政策を見ていくと、ナポレオン三世と、ある意味テクノクラートの活躍するユートピア社会主義の理念を持ったサン・シモン主義のタッグは、ともに成果を上げていることになり、技術面で後進国であったフランスを産業国家へと引き上げる原動力となった政策を担ったのだったといえよう。


今となっては19世紀の最新の鉄骨建築技術でもって造られた
夢の象徴かつ古いものの象徴だなぁと…。何かのパラドクスみたい…。

万国博覧会は消費から排除された大衆が交換価値についての手ほどきを受ける、高等教育機関だった。「すべてを見ることはできるのだが、何一つ手にすることはできない。」    [G16,6]

「産業者による、産業者のための社会」をスローガンにするサン・シモン主義者にとって万国博覧会は夢の実現であった。また万国博覧会では産業の競い合いから生まれた生活を楽にする機械を展示しているわけで、労働者もお金を貯めさえすれば楽な生活が手に入ることを教える教育機関の役割も果した。
たぶん、これが、ベンヤミンのいう交換価値の出現であり商品が物神性を獲得するということであり、大衆が商品に感情移入すること、その感情移入が遊歩者にとっての幻想(ファンタスマゴリー)を帯びているものなんだろうと、今になって思ったりする。(万国博覧会に関連してデパートの登場とフーリエ主義とサン・シモン主義について触れたくなるが、長くなるのでここでは触れない)
しかし鉄骨建築技術の興隆を象徴する万国博覧会が開催された時期は、パサージュにとっては衰退していく時期でもあった。言葉は悪いかもしれないが、パサージュに見られる未成熟な技術の段階にあった鉄骨建築は、いわば万国博覧会へのお膳立てであり、まさにパサージュを踏み台にしてパリは万国博覧会にこぎつけることができたのだ。パサージュは夢の残渣であるという表現は、多面的要素をもつ19世紀について考える上での哲学的骨組みの網に引き入れるべきアクチュアルな側面である意味においても、的確なものだと言える。

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