デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



8月に放送され録画したもののこれまで観れなかったパリ 狂騒の1920年代という海外ドキュメンタリーを視聴した。
なんどか触れているが、私にかなり強い影響を及ぼしている作品の一つにM・プルーストの『失われた時を求めて』がある。この作品は20世紀前半のパリの上流階級の人々をユーモアと滑稽さを交えて描き、またそういった人々の裏の面をときにグロテスクなのだが悲惨さを感じさせず追想でもって人々やその時代の美を見出させるような作品であるのだが、この作品を読んでいると作品のなかに出てくるサロンや避暑地、そこで起こる出来事を作品の語り手のように享受できる人々というのは、ごく一部であったことを忘れがちになる。
今回観たドキュメンタリーは小説に没入していたころの自分の意識に冷や水を浴びせられるような内容で、すごぶる面白かった。ロンドンやニューヨークに先んじて前衛芸術が花開き、前衛と極右が対立してなお時代のトレンドは存在し続けていた1920年代のパリの映像は恐ろしくもありまた甘美である。あの映像に映っていた有名芸術家たちは若くして貧乏していた時分だと学んだが、どの程度の貧乏だったのか、正直疑わしく思ってしまった。
あと、1920年代中ごろにパリを旅行で訪れたV・ベンヤミンが、ヨーロッパ各地やロシア、アメリカから人々が押し寄せた20世紀のパリの光景を目にして、どう思ったことだろう、彼の考える19世紀前半のパリと1920年代のパリとの違いと共通点はどういったところだろうとか考えた。まさか、『パサージュ論』にでてくる「目ざめ」は1920年代のパリと1930年代のパリとの対比がきっかけで「目ざめ」の概念が閃いたのではないかと、勝手な想像をはたらかせてしまったのであった。

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