デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



W・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー(シェイクスピア全集)』(白水Uブックス)小田島雄志訳、読了。

塩野七生や辻邦生の作品を読んではいたが、シェイクスピア劇の『ジュリアス・シーザー』(以下『シーザー』と記)をきちんと読み通したり、ましてや観劇したことはなかった。
『シーザー』が作家や歴史家・学者が描くローマ史ではないと分かっていても、正直なところどうしても私の知っている史実と異なる箇所に目が行ってしまった。登場人物たちの台詞を読みながら、マーカス・ブルータスがキャシアスの死を知るのはキャシアスの死から日が経っていた、M・ブルータスは案外とるに足らない人物であった可能性もある、シーザーの死の間際の言葉にある「ブルータス」はディーシャスを指す可能性が高い、その他、などのことを頭の片隅で考えながらの読書だった。
ただそんなどこか斜に構えた気持ちで読んでいたとはいえ、劇中の登場人物の言や行動の動機に対しては、なおも心を打つものがあった。史実とかけ離れた演出がほどこされていようが、当時の彼らが劇の台詞のような言い回しを用いていたとは思えないと分かっていようが、何故だか実在の人物たちの言やふるまいのそれと当らずとも遠からずのように感じられてしまったのは不思議である。
後世が抱く歴史上の人物たちに対して抱くイメージを定着させた点で、この劇はとてつもない影響力を及ぼしていたことは確かだろう。私も古代ローマに関してさまざまな視点から描かれたいくつかの本を読むまで、シェイクスピア劇を基にしたカエサルとその後の内乱のドラマを見たり学校で英語等の教材として習ったりしていたわけだから、おのずとすり込まれていたのだなと素直に思える。今回の読書は過去の刷り込みがあったがゆえに楽しめたのだろう。また、強大すぎる存在の野心に対して謀反者が大義名分を抱いたり、ちっぽけな存在なりに一大決心をして葛藤を抱えながら行動を起こすものの悲劇的結末に至ってしまうさまに、学校に通っていた頃には感じなかったある種の同情と諦観めいた感情を同時に抱いた。劇中のM・ブルータスや『ハムレット』のハムレットは若い頃に一度、年を食ってからもう一度接するべき登場人物のように思う。

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