デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 






忠霊祠






三忠祠への一つ目の門(義烈門)の前で清掃スタッフが落葉を掃いていた。その傍にネコがいたが、近づくと逃げるタイプだった。


義烈門





忠義門


三忠祠

三忠祠には百済の忠臣である成忠と興首と階伯が祀られている。1957年に建立され、1981年に建て直された。

成忠(ソンチュン)

成忠は、酒に溺れて政を顧みない義慈王(ウイジャワン)を正そうとしたところ、王の怒りを買って投獄され、獄中で断食し命を落とした。死に際して敵からの攻撃を予言した成忠は、遺言として進言書を残し、その中で新羅から攻撃を受けると書いた。その内容は的中し、新羅の攻撃を受けて、義慈王は百済最後の王となった。

興首(フンス)

興首は義慈王を正そうとして幽閉された。新羅から攻撃を受けた時、王は興首を呼び戻そうとするが、新羅と唐の策略によってそれが叶わず、百済は致命的な打撃を受けた。また解説板には百済の要衝である白江(ペッカン)と炭峴(タンヒョン)を守ろうとしたものの貴族たちに反対されて、その地を守り抜くことができなかった、とあった。

階伯(ケベク)将軍

階伯将軍は、5千人の決死隊を率いて黄山伐(ファンサンボル)と今の論山(ノンサン)市連山面(ヨンサンミョン)で、新羅の金庾信(キム・ユシン)将軍の5万の大軍と戦って戦死した。百済の最後に散った名将だ。


忠臣たちについて紹介したが、ここで軽く目を通した内容が歴史や土地の名(地名・通りの名)として私の中で繋がって生き生きとしてくるのは、またしても帰国後のことだった。



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