デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先月、内田樹 著『映画の構造分析』 (文春文庫) という本を読んだ。全体的に興味深い内容ばかりでとてもおもしろく読めたのだが、本の内容を前提にして映画を再鑑賞してみると、鑑賞中にはて?と疑問符がついてしまい、挙句の果てに眠くなってしまって鑑賞を途中でやめてしまった。
本のコンセプトは映画を用いて現代思想を紹介し説明することにあるわけだが、映画の作り手は現代思想を映画として表現しようとして映画をつくったわけじゃない。映画が現代思想を紹介するにあたって都合のいい格好の内容になっていただけなのかもしれないと思う。
以下、覚書のような脈絡のない雑記である。
映画はニューヨーク市立図書館の書庫がゴーストによって荒らされるのを目の当たりにした女性司書が悲鳴をあげる場面から始まるが、映画の中では人間の日常生活をゴーストが荒らす現象が社会生活を送る人々の間で目立つ形で起ころうとしているところに、主人公たちがゴーストの存在を世間に知らしめたことで、ゴーストという存在が街・社会で認知されるのであって、決してゴースト研究をしていた主人公の二人がゴーストを生み出したわけではない。
映画ではヒロイン(ディナ)にとって、恋愛のアプローチを受けても嫌な気にならない男(ピーター・ヴェンクマン博士)とアプローチされて鬱陶しく思ってしまう男(ルイス)が出てくるが、ヒロインが抑圧された性的欲求を満たしたい相手は本当にルイスなのだろうか。ディナは言い寄ってきたピーターの活躍をTVで見るようになり有名になった男にすりよるような心がはたらく取り立てて恋愛のプロセスとしては珍しくない感情の動きを見せるのは別におかしくない。性的な相性と相手への関心は別物であることは分かるが社会的有名人になった相手への関心を抱き、たとえ憑かれてなくとも恋愛関係に至るまでのプロセスを踏んでいるとはいえる。よって、あくまで、「門」を担当させられるディナと「鍵」を担当させられるルイスが強烈に求め合うのは、ニューヨークに降臨する「神」によって憑かれてしまったことが原因である。もし、「神」が降臨しなくともディナがルイスに抑圧された性的欲求を爆発させる相手として無意識な感情を覚えていたのならば、そのサインの表現・描写はどこにあったのだろう?
環境保護局局長のウォルターはゴーストを退治するビジネスが出来てしまった社会に適応することができず、常識が変わってしまったことを理解できなかったことで既存の法体系からはみ出した存在を許せず、そのような相手から不遜な態度をとられたことが許せないというキャラに過ぎないのではないか。
本に書かれている内容の一端を感じとるセンスの欠片さえ私には無いことを自ら露呈させたようなことを書いてしまったが、やっぱり本の内容にある「ゴーストバスターズ」に込められた意味は超解釈な気がするなぁ…。


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