ぱたぱた仙鳩ブログ

徳島から書道文化を発信します。

熊谷守一展

2012年01月04日 | インポート

Morikazu1 北九州市の小倉城の近くにあるリバーウォークというショッピングセンターの5Fに北九州市立美術館分館があります。正月に出かけた帰りにたまたま熊谷守一展が開催されていることを知って立ち寄りました。

熊谷守一(くまがいもりかず) 明治13~昭和52(1888-1977) 97歳。岐阜県中津川市の生まれ。東京美術学校西洋画科で黒田清輝・藤島武二・長原孝太郎らの指導を受ける。画業70年におよび妥協を許さない超俗的な生き方を貫いたことから「画壇の仙人」とも呼ばれた画家。

単純化した形と、板に、塗り絵のように面を単色で塗りこみ、輪郭線だけを塗り残すという独特の絵が昔から大好きです。

どこか、甲骨文を思わせる抽象画ですし、この渋さとかわいらしさは、本当に絵を抱きしめたくなるような衝動に駆られます。

晩年によく書いた彼の書道作品も結構面白いのですが、やはりその本領は身の周りの動物・鳥・昆虫・花・風景などを単純化して描いた板絵だと思います。もっと作品を紹介したいところですが、著作権もありますので、図録の表紙の紹介だけにしておきます。

書道の精神と通じる部分をたくさん持っている人で、作品を見るといろいろな刺激を受けます。ぜひご覧ください。2月12日(日)まで。会期中無休、10:00~20:00。


福岡県中間市の梅安天満宮の書

2012年01月04日 | インポート

Sugawara 2012年が始まりました。本年もよろしくお願いいたします。

初詣には、ほとんど毎年、福岡県中間市の梅安天満宮に行っています。妻の実家のある北九州市の近くにある小さな天満宮なのですが、境内で作っている美味しい梅酒の御神酒が頂けるのと、とても良い書が2点見れるので行くことにしています。

その一つの書が、右の写真の菅原道真の漢詩碑です。菅原道真は天神さんとして有名で、書道史でも名前は必ず出てくるのですが、神様だけに伝説の要素が強く書の実態がよくわからないという不思議な存在なのです。この碑の漢詩は「離家三四月、落涙百千行、萬事皆如夢、時時仰彼蒼。」・・家を離れて三四月。涙を落す百千行。萬事皆夢の如し。時時彼蒼を仰ぐ。(都を離れてから3~4か月が過ぎた。涙を落とすことは限りないほどだ。今となってはすべては皆夢のことのように思われる。時々あの大空を仰ぎ天に訴えるのみだ。)

菅原道真 (すがわらみちざね) 承和12~延喜3 (845~903  59歳            公卿、天皇の侍読、菅原是善の子。島田忠臣の弟子。祖父清公から続く紀伝道の家学を継ぎ、元慶元年(877)、33歳で式部少輔・文章博士を兼任して宮中で後漢書の講義を行ない、仁和2~寛平2年(886~890)の4年間、讃岐国守を勤めた。都に戻って宇多天皇の時に蔵人頭、参議となる。また遣唐使に任ぜられるが派遣中止を奏上。醍醐天皇即位にあたって藤原時平と共に補佐を命じられ延喜元年(901)には従二位に上る。しかし権勢の拡大を藤原氏から疎まれ、時平の讒言で太宰権帥に左遷され、大宰府で没した。著に『菅家文草』『菅家後集』など。没後、「天満大自在天神」として崇敬された。詩文に秀で、書も評価が高かった。真筆が確かなものはないが、幾つかの美しい書蹟が残る。

この漢詩は、大宰府に来てから3~4か月後に作られたもののようです。また、この碑の文字をよく見ると、ところどころの点画が鳥の形をしています。平安時代の看板によく見られる「鳥書」というやつです。渇筆も使われていて、堂々たる作品だと思います。

この神社の立看板に、この鳥書と関連あるのか、以下のようなことが書かれています。

「その昔、菅原道真公が大宰府に下向の折、蜂の大群が現れ一歩も進めなかったとき、いづこからともなく鷽(ウソ)の大群が飛来してまたたく間に蜂を全滅させ、菅公の一行は無事通行できたという由緒があります。拝殿の前にある鷽の像の頭をさすると頭がよくなることから天満宮さまの守り鳥として知られ、幸運の神として信仰があり、広く親しまれています。鷽替え神事は一年中の嘘と誠を神前にて取り替え、罪滅ぼしのためと云われ、開運の出世を授かると信じられ、求めて帰った鷽を神棚にお祀りすると、除災招福と家運隆盛を祈願するのもこの故であります。  梅安天満宮氏子総代」

この作品が菅原道真の本当の書跡かどうかはわかりませんが、彼の少し前の空海(775-835)、嵯峨天皇(786-842)らと、彼の少し後の時代に和風書を確立する小野道風(894-966)との中間に位置する書風と考えれば、なるほど、こんな感じだったかもと思われます。

Kyokusouもう一つ、この神社には社務所に 廣瀬旭荘の漢詩の屏風が有るのです。これは、初詣の時でないとなかなか見れないもののようです。

幕末の書法の例として見ると、これも非常に興味深い作品です。広瀬旭荘は晩年に大阪の文壇の中心人物になる人です。

広瀬旭荘 (ひろせきょくそう)  

文化4~文久3 (1807‐63)  57

豊後日田出身。淡窓の弟。名は謙、別号は秋邨・梅墩。亀井昭陽に学び、菅茶山らと交遊。古文辞学派。咸宜園教授を経て大坂堺で逍遥吟社を開塾。江戸、大坂、北陸を巡遊し摂津池田で没した。尊王派で木戸孝允・佐久間象山・吉田松陰らと交流。詩人としても知られた。梅花社員として篠崎小竹とも交流。門下に長三洲・藤井藍田らがいる。

広瀬淡窓・旭荘兄弟は博多の亀井家の門下ですし、この場所、中間市は昔の豊前国ですから、豊後の天領である日田の広瀬家とも関連の深い場所だったのでしょう。なおこの近くに長崎街道が通っていますし、重要な場所だったと思われます。

正月からこのように魅力的な書を鑑賞できるので、この神社に毎年のように初詣しています。

今年も美しい書を見て心が洗われるように思いました。3日に電車で移動し、夜には徳島に戻りました。明日からいよいよ仕事です。今年も頑張ります。