あんた、疾いのかい?
「ああ、そうだよ」と応えるヒトは、どのくらいの割合でいるのだろうか。
こういう統計、ないもんかね?
「まーね」とか「マシンは、ね」とか「時々ね」ってな具合に答えるヒトはわりと、居そうだ。
試しに「いや、ちがうよ」って答える。んで。
じゃあ、遅いのかい?
って聞かれると「コイツ、ケンカ売ってんのか?」とか、「いや、そうでもないと思うよ」とくると思う。
はて、車に乗ってるときは、同じ問いに「ああ、遅いよ。でも、それが何か?」って、答えるヒトが多いんじゃないかしら。
バイク乗りにとって、スピードとは、ある程度のコンセンサスで価値観のヒトツになっているような気がする。みなさんはどうだろうか。
オレ自身は、疾いか遅いかには、実は、あまり興味がない。オレにできることはタカが知れているし、目ェ三角にしてトバしたって、路上の死神に引っ張られるようでは、オレにとって無価値な行為だ。
同様に、それが他者でも、そう思うのだ。
いまどきのバイクは300Kに手が届くと言う。一定時間であれば彼は、その路上で最速の物体になれるはずだ。ただ、その行為が自らの中に潜むマモノに呑まれた上での行為なら、早暁、死神に召し出されるか、怨嗟の起点に立つことになるだろう、と思う。
今までそのようにヤってきて、生き残ってるヒトもいるだろうが、相応の強運に恵まれているのだ。でも、それは、今後も与えられ続ける確証は、モチロン、ない。
自分自身の脆弱性にフタをすることで得られる、擬似的な勇気が存在することは、相応の人生経験を積んだ方なら、ご存知のことと思う。
ただ、この考え方だって、オレだけのカチなのかも知れない。
んで。
結論を推量するなら、疾いか遅いかは、ライダー個人が自分自身の中に持っているものではないか。
天上に神は、いない。大気があるだけだ。神がもし、いるなら、神はそれぞれの胸の中にこそ、存在するのだ。
疾いか遅いかは一人一人が信じるものを、論じることであって、比較すること自体が妥当な議論ではないように思う。
ただ、実際にライドする中では、先行する者と、後塵を拝する者がいる。
はて、コレをどう、受け止めたらいいのか。
オレは、「バトルごっこ」であって、賭命する「勝負」ではないと思っているのだがこれは、誤解だろうか。