はじめに、謝っちゃいます。許して。
この、お題、とあるヒトのブログお題のパクリです。あんまり、いいお題なもので、拝借いたしました。
ま、「こんなモノの見方もある」ぐらいに、流していただけたら、ありがたいです。
さて。
実は、オレ、40だ。今年で41になる。悪いか。
40歳になった自分を省みて、思ったのは、昔、オレが見た40才ってば、もっと、オトナだったように思えてならないのだ。それも、オレが感じていたのは、割と、ズルいオトナだ。
彼の見解が、正解かどうかはともかく、何だか積極的ではないが、自信を持って見解を述べる。反駁しようものなら、落ち着いた口調で「でも、今に、実感するコトさ」なぁんてグアイ。勝ち誇ったように切返され、議論はオワリ。
そんなオトナが、オレの経験していた、40才だった。
以下、真実が複数あるか否かは、別の議論があると思うので、自分本来の感性に対する「真贋」と言う意味で、真実と言う単語を定義して、続ける。
惑わされる、と言うのは、外部からの刺激にせよ、内部からの変革にせよ、それが彼自身の真実からかけ離れた認識に、誘引されることを指す。
反対に、惑わされないと言うのは、内部外部からの刺激がいくらあっても、彼自身の真実が揺らがないことを示す。
そして、その、真実とは、自己が社会と接触するもしくは内部から革新される、いくつもの経験から、大きく揺らぎながら、時にはごっそり入れ替わったりしながら、形成される経過をたどる。
いづれの経験もメモリーに蓄積され、経験自体が何度も反復されるようになり、だんだんカメラのピントが合ってくるように、カレの真実は、座標的に認識されてくるのだと思うのだ。
結果として、惑わされることが少なくなる。カレの真実はそうカンタンに揺るがないのだから。
この蓄積が、自分自身の中にされてきたことを、オレは、最近、感じている。
何かあっても「オレはこうありたい」というのが、割と、明確だ。
ただ、コレは自分で認識できている、自己欺瞞もあるので、相殺されれば、なに、大したことはないのだ。この、自己欺瞞がなければ、このささやかな誇りさえも、維持できない脆弱な存在が、オレだ。
かつて、自分が経験した、ズルイ40才に、オレも、なりつつあるのかも知れない。