山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

年末ウツ

2006-12-31 20:01:30 | 未分類過去
年の最後だというのに思わしくない題名だが、この3日間自宅にいて半分ウツ状態である。

大掃除をしようとしているのであるが、なかなかはかどらない。
もともと掃除が大嫌いで整理整頓が苦手なわけであり、手をつければつけるほど片付くどころか散らかる一方という感じである。
やっているとだんだん肩が凝り、頭痛がしてきて、夕方には昼寝状態となる。
だいたい、この家には良い「気」がない。生気が失われていくような気がする。
普段元気に生きているのは、会社に行って自分のウツを紛らしているに他ならず、やはり自分は精神的に異常なのだと思えてきてしまったりする。

この家にいて、気分が腐ってくるのは、狭いところにきて散らかしているからだと思う。
捨てなくてはいけないものを溜め込んでいる。
そういう部屋のなかにいると、穴ぐらのように、布団をかぶって冬眠状態になりたくなる。
毎年のことだが、大掃除をするのが遅すぎるため、すでに年内のゴミの回収は終わっているから、処分した物の大きなゴミ袋が際限なくベランダに積み上げられていく。
ため息だ。
それでも、なんとか通常よりはマシな状態にし、片付けきれないものは目に付かないところにひとまとめにしてもぐりこまして収束させた。
とにかく、あるべきものがあるべき場所にもどっていないことが、散らかりの根源だということがわかった。とりあえず置いておこうというのがあっちこっちに溜まっていた。
普段から少しずつでも片付けるように心がければ、こんなにひどい状況にはならないはずだ。来年からはちゃんとしよう。

もうひとつのウツの原因は「年賀状」。
親戚や会社の上司に出さなければならないが、考えただけで面倒くさい。夫が年賀状にCD-ROMを買ってきてあるので、それで作ればいいのだが、どうしてもやる気にならない。
せっかくの休みだというのに、大掃除や買い物や年賀状作成で、普段より忙しいではないか!ああ、もうやめたやめた!いやなことを無理にすることはないんだ。
とにかく、放置だ!
もし明日年賀状が届いたら書く気になるかもしれないが、とにかく年内に手をつける気はなくなった。

買物もいろいろある。やはり仏壇の花を買わねばと思いつつ、いろいろ見てあるくが、どうしてこんなに高いのかと思う。理想は500円だが、普通に最低1000円くらいする。
花に1000円かける気はない。しかし回りまわって通常500円くらいの何のことはない菊とカーネーションの束の仏花を800円で買ってきた。松が入ると1000円超えてしまうんだ。
1000円出すなら、刺身が買えるなどと思ってしまう。しかし、刺身も高いから結局は買わずに帰ってきた。家族で食べるのにいいなあと思うのは3500円していた。
今日、鮮度のよい刺身を食べ、明日すき焼きにしようと思っていたが、刺身は中止で今夜はすき焼きだ。明日は未定だ。あるものを食べよう。
しかし、すき焼き用のまともな肉は250g入り1パック2000円以上しているので、手が出ない。結局は細切れにする。
クリスマスにもデパートでケーキやオードブルを物色しつつ、手がでない値段の前にひるみつつ、無駄に時間を過ごしたが、年末の買物も同様であり、ただただぐるぐる回るばかり。
格差社会の中でみごとに下の部類に分類されてしまった我が家では、年末は「ウツ」を昂進するばかりである。

「年越しの金がない」と昔の物語などでよく出てくる事柄であるが、年が越せないほど貧乏ではないものの、年末年始にかかる費用をなんとか抑えたいという「あがき」が、精神的な負担になってしまう。

貧乏脱出!思う存分の希望のものを買える日はいつか来るのだろうか?

細木数子さんに言わせたら、「一家の主婦のあなたが悪い、愚痴をこぼさず、家事にはげみなさい!」というに決まっている。

とりあえずは、掃除と買物を済ませ、正月の準備をした。
あとは、料理のみ。

がんばれ、コリドラス!
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故郷の海の夢

2006-12-31 01:44:06 | 未分類過去
朝、変な夢を見ていた。
幼少期に住んでいた海の近くの集落の、借家があった場所に行くと、もう家はなく更地になっていて、この辺に家がありましたよね、とその辺の人に話したりしている夢だった。実際には海まではかなり距離があったのだが、夢では直ぐ近くが水際になっていた。
もしかして、本当に私が生まれ育った家は最近解体されたかもしれないなと思った。
なんせ、私が生まれたときは、もうすでに古い感じだったから、今まで残っているほうが不思議なくらいだ。どう考えても今や築60年はたっているんじゃなかろうか。

最近その場に訪れて記念に写真でも写しておきたいなと思っている。
文化人類学でアイデンティティについて考える機会を与えられた。今まで私が思うアイデンティティというのは、外国へ行って定住する人やその子供が、自分とは何者なのかと考えることであり、日本で生まれ日本に暮らす自分にはあまり関係ないことのように思っていた。
しかし、「自分とは何者か」と思う時に、自分の原点が、幼少期に過ごした海辺の小さな集落であることが、まぎれもない事実であることを感じた。私の親にとってはそこは数年の一時的な棲家だったに過ぎないが、私にとってはそこが最初の自己形成の場だったといえるのだ。
自分が思っていた以上に、潜在意識の中にその部分が大きな割合を占めていることに気がついた。

一旦目を覚ましてまたうつらうつらしていると、今度は故郷の海水浴場が出てきた。そこの海の家だかレストランのような店に行こうと家族で向かっていると、ものすごい大波で海の水も増えており、海岸からだいぶ高くなっている道路まで水が来ていた。
あぶないから帰ろうと言っているのに、夫は道路の高さまで押し寄せている海面のそばに寄って行った。そうしたら、すごい波が押し寄せてきて、夫が持っているカメラなどが全部水の中に埋もれてしまった。夫に早く海から出ろと言っているのに、普段大騒ぎをするはずの夫は妙に無表情で体半分が水にうずもれたままで平気で止まっている。どうしちゃったの?
と思った時に目がざめた。
なんとなくおそろしい海の夢というのは時々見る。

今日、なんでこんな夢を見たかというと、昨日、富士フィルムのCMだったか?波打ち際で女性二人が振袖姿で戯れているのがあって、長瀬君が袴を波にぬらしているシーンがあったと思う。
わあっ!晴れ着が海水にっ!と思った。振袖で海岸なんてとんでもないですっ!
これはきっと、そのCMの影響だろう。

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