山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

迷走:国立ハンセン病資料館にたどり着くまで

2018-02-07 23:22:02 | 車・運転・道路・駐車場2018
先週、東村山市青葉町の多磨全生園「国立ハンセン病資料館」まで車で行ったのだが、そこの駐車場にたどり着くまでは、実は迷走を繰り返し、1度はあきらめて帰ろうと思ったのだった。

ここに行くには、北原交差点から所沢街道を北西に向かってずっと進んで行き、「全生園東」という交差点を右折する。



ここは対向車が多いと、後ろの車をせき止めてしまうのだが、それは仕方がないとして、なんとか右折できた。

そして、すぐに左側に東門というのも見えたので、これで問題なく到着できると思っていた。

ところが、資料館とその駐車場となると、いったいどこなのか?たぶんここかも?でも違うかも?という感じで、「あっ、ここだ!」



と思ったときには、通り過ぎてしまっていたのだ。



カーブを曲がって進んでしまった。
その先の交差点を左折して、



どこかで回って来れると思って進んで行くと、狭い道が住宅に突き当たってしまい左折。



曲ると、ひえ~~雪が積もっているではないか!



バリバリバリバリ・・・凍った雪の上をタイヤが・・・無事雪の上を通過できて一安心。


そして、また道が突き当たってしまった。



安全確認しつつ左折したら、ぐるっと回って元の道に戻った。



それから、また資料館前の通りに戻ってカーブを曲がる。



今度は反対車線からで・・・、やはり、ここが入り口だ!という確たる決め手がないので、
対向車線からその敷地に入っていけるわけがない。もし違っていたら、どうやって戻るんだ?

それで、そのまま所沢街道まで戻ってしまった。

今度は、また来た道を戻り、1つ前の交差点まで走った。今、地図でみると「青葉町1丁目」という交差点になっている。ここを左折してみる。地図には「野火止通り」と書いてある。ちょっと走って左折して、うまく行ったら資料館のほうに行けるかも?



すると、何か団地みたいなところに入ってしまった。

またもや道路が狭くなる。今、地図でみるとそこは清瀬市で「都営竹丘2丁目アパート」と書いてある。



わけのわからない道。早く脱出したい。



こんなところに出てきた。この先を左折。



ものすごい右カーブを曲がったあとで、迷走はもう限界である。
車を止めてナビを「自宅に帰る」に設定した。



そうしたら、ここに出てきた。

その時はわからなかったけど、ドライブレコーダーの画像を見ると同じ建物が写っている。
最初に資料館を通りこして北方向に左折した交差点だ。今度は右(南)方向から出てきた。
地図で見ると「竹丘3」と書いてある。
ここを左折。
また資料館の通りに出られたんだけど、やはり対向車線から右側にあるものだから、よく見えず、そこが入り口だという判断がつきにくい。
観光施設と違って「資料館駐車場⇒」などという目だった表示はないのである。

やはり、場所を確認するには反対側から走ってこないとダメだ。

そこでとりあえず、東久留米のイオンに戻って、仕切り直すことにしたのだ。

ハアハアハア・・・

自宅を出たのは、遅めの朝ごはんを食べてからだったので、ちょうど昼ごろに資料館に着くはずだったが、迷走を重ねた後に、そこからイオンに戻った。
駐車場は1~4階まで満車で、5階に置いた。
それからランチを食べようと思ったら、超満員で、フードコートのテーブルが全然空かず、ぐるぐるとフードコートの中を歩き回り続けた。
1時半くらいになってやっとテーブルをゲットし昼ご飯にありつく。

それから、イオンで調味料や菓子を買い、車に戻った。

もう、家に帰ろうかと思ったけど、ここであきらめたら進歩は無いと思って、また東村山青葉町に向かった。

もう一度、全生園東の信号を右折。そして走って行った。
資料館の敷地の中に車が数台停まっているのが見えた。

ここに違いない。



無事到着した。



しかし、着いたのは、もう3時頃だったので、時間が足りなくなってしまい、資料館の中を見るだけで、外を見ることがほとんどできなかった。

今回、運転で学んだこと。
後ろから車が来ると焦ってしまってなかなか速度を緩められない。速度を緩めると後ろからクラクションを鳴らされると思っていたからである。いつもそうやってビビっているのである。
でも、こういう時には、早めに手前で、左ウィンカーかハザードランプを点滅させて、速度を落とすか、あるいは停まってしまって、後ろの車に先に行ってもらい、その後、ゆっくりと入り口や駐車場を確認すれば良いに違いない。

とりあえず、頑張って到着してよかった!


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国立ハンセン病資料館(5)

2018-02-07 01:13:36 | 旅行・街歩き
多磨全生園

資料館の見学を終えて外に出ると、もう4時20分くらいでした。
敷地内と散策したいと思っていたのですが、閉門までわずか10分くらいしかありません。
急いですぐ近くだけ歩いてみました。



桜並木。桜の季節にはきれいなんでしょう。



まだまだ雪がたくさん残っていました。



第一面会人宿泊所。家族の人が面会に来たときに泊まれるようになっていたのでしょうか。



第二面会人宿泊所。

ここまでしか行けませんでした。



また、今度、敷地内の見学に来たいと思います。




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国立ハンセン病資料館(4)

2018-02-07 00:55:37 | 旅行・街歩き
<体験談を視聴して>

資料館の中で、ハンセン病の人の体験談の映像を見ることができる場所がありました。
何個か、ヘッドホンと画面があって、座ってみることができます。
体験談を話す人も数人あって、自分で選んで視聴できるようになっていました。

その中で、私は自分の母と同じ歳の女性を選びました。確かその人も昭和7年生まれだったと思います。

その人は、6歳の頃に多磨全生園に連れて来られたそうです。父親はすでになくなっていて、おじに連れて来られたと言っていました。普段はいつも兄弟姉妹3人で行動しているのに、その時に限って1人だけ連れて来られたので、とても心細かったそうです。
療養所の中に入り、医者の診察を受けるのも怖くて泣いたそうですが、診察を受けている最中にオジサンは帰ってしまい、さらにその後も泣き続けたそうです。

その人のお母さんは、実は先にそこに入所していたらしいですが、その人は、物心ついたときから母と暮らしていたわけではなかったので、母に親近感はなかったようです。でも、それから、母に会ったと言っていました。

子供はやはり集団生活をし、そして包帯を洗ったり巻いたりする作業をし、重症な患者さんの手伝いをしたりしたそうです。患者には耳にウジのわいた男性などもいたそうです。

同じ子どもに家族の人が面会に来て、膝の上に抱いてもらっている様子等を見ると、羨ましかったそうです。自分には親がいなかったので、と言っていました。最初、実母が療養所内に居たようなことを話されていましたが、亡くなったのでしょうか。

大人になって、療養所の中の青年と結婚したそうです。そして、夫となった男性は断種手術を受けました。

この人の話によると、療養所内で妊娠してしまった女性は、子供が生まれないように中絶手術を受けるそうですが、中には中絶してもらえなかった人がいて(そう表現していました)、赤ちゃんを生んでしまい、その子を療養所の外の町に連れていって、誰かが拾ってくれそうな場所に置いてきたそうです。その子は誰かが拾ってくれたらしく、産んだ人は安堵したと言っていました。

子供の頃に療養所に入れられ、それから結婚した人は、最初から自分の子供を産むことはまるで想定していないのですね。産んだらその子もハンセン病になってしまってかわいそうだから生まれないほうがいいと信じていたようです。

この人は、私の母と同じ年だと思うと、少女時代は第二次世界大戦があって、日本中貧しく、健常者であっても辛い時代だったと思います。うちの母も、芋の蔓などを食べ、やせ細ってフラフラしながら労働をさせられていたそうです。

それでも、戦後はだんだん豊かになり、うちの母の場合は結婚して子供を2人産み育て、仕事もして暮らしを立ててきたので、それなりの楽しい人生だったでしょう。

たまたまハンセン病にかかってしまった人々は、そういう人生を送ることができなかったのです。
子どものときから年老いるまで、旅行等にも行けず、レストランでおいしい物を食べたりもせず、ずっとせまい範囲の世界で暮らしてきたのですね。

でも、この人は、夫と人生を共に歩めたことは、幸せだったのかもしれません。
しかし、夫は、後に癌で亡くなってしまったそうです。癌だと知った時が、亡くなった時よりも辛かったと言っていました。

私の父も癌で亡くなっていますが、病院で余命宣告を受けたときが、母や私たち家族にとって一番辛かったと思います。

この人は、近隣の施設の子供たちと交流を持つようになり、その子たちを自分の家族のように思って交流し、今ではその人たちの子供が大きくなってプレゼントを持ってきてくれるほどになっているそうで、孫がいるようだと話していました。

今まで、療養所でお世話になった先輩やおかあさん(寮母さんのような人かな?)などにお返しをするつもりで、人の役にたちたいというようなことを話されていました。

「らい予防法」が廃止され、全生園から外に出て行こうと思ったこともあるそうですが、神奈川の実家は建てなおされて面影もなくなっており、故郷とも感じられなくなっていたとのこと。
そして、薬の後遺症で神経痛が出てしまったので、療養所内で暮らしているそうです。

(この映像は数年前のものでした。)

1つの時代は終わった。
ハンセン病の人もみんな同じ人間で、誰しも同じように感情を持ち、同じように生きがいを求める。たまたまそんな病気にかかってしまい、こういう人生を歩むことになったのだ。
政府は、わるぎがあって法律を作ったわけではないだろうけど、その内容は結果として良いとは言えなかった。それに、療養所内では、もっと細やかなケアができなかったものかと思う。

とにかく、医学が進歩して、ハンセン病は撲滅に近い。
世界ではまだ発病者の多い国もあるようだが、治療すれば必ず治せる病気となった。

何にでも、真心を持って真摯に向き合って行きたいものだ。
ハンセン病以外にも、今現在進行中の患者や弱者の問題や人権問題があるかもしれない。
過去の失敗を踏まえて、そういう問題に、きちんと対処しないといけないと思う。


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