昨日から、上林暁の短編小説を読み始めたのだが、今読んでいる作品は昭和14年~17年ころに発表されたものである。
実は、私は上林暁という作家の小説を読むのは、全く初めてであった。
それでも、読んだ瞬間にこれはその時代に代表される「私小説」と言われているものだなとわかったのだ。
一人称で書かれているからでもあるが、上林暁の個人情報と作品の内容が一致しているからでもある。
私小説というのは、全く事実そのままというわけではないのだが、やはり事実と重なる部分があって、作品の中の「私」と著者とは同一人物であり、作品を理解すれば、それはそのまま実在の作者を知ることに直結する感じなので、なかなか興味深いと感じる。
事実をもとにしているので、あんまり奇想天外なことは起こらず、日常の一コマを描いた随筆のようなこじんまりした作品が多いが、その中の出来事について主人公がどう受け止めているのかなどを読み進んでいくのがとても面白いので、私小説は結構好きである。
そのような「私小説」という小説区分は、日本独特のものであると聞いたことがある。海外にはあまりないらしい。
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ところで、最近色々なyou tube を見ているが、その中には自分の私生活を切り売りしているとしか思えないユーチューバーの動画がかなりある。
例えば音楽家が音楽演奏の動画を掲載したり、医者が病気について説明したりする動画は、その分野に関する情報発信を目的としているわけで、それは、その人の専門性であり、それを発信するのはその職業の活動の1つだろうと思える。
しかし、そういう人が、日常の朝ご飯を作って食べる姿や、時には寝起きなどの日常生活を動画にして掲載するようになると、それは、その人の生活自体が売り物になっていることになる。
それはちょっと方向性が違うような気もしてくる。
しかし、その中に、一般人的な生活の姿が描かれているのであれば、それはそれで興味深く、楽しいものでもあり、その動画自体に価値があることになる。
ということは、そのような自分の日常生活を撮影して動画とし、切り売りすることは、まるで昔の私小説作家が、日常生活を素材にして小説を書いていたのと同じではないだろうか。
もちろん、動画にしても、そこには作品として視聴者の興味をそそったり、何かインパクトを与えたり、共感させたりする工夫などがきちんとされ、綿密に構成されていると思える。
だから、それはそれで良いのではあるが、個人の多くの日常の状況を公衆の面前にさらしていくことのリスクというのは無いのだろうか?
昔の私小説作家も、恥ずかしい場面についてさえ作品として暴露し描いたりして、それによって原稿料をもらっていたわけなのだが、文字にするのと、映像で実際の状況が写るのとはまた違うような気もする。
日々、次々に作られて公開されるyou tube動画は、実況中継に近いものであり、小説のように後になって発表されるものではない。そして、続編が期待されるが、本人たちも明日はどうなっているのか、半年先はどうなっているのかわからないわけで、もし大きな変化が起きたときもそれを公表し続けていく覚悟があるのだろうか?
ユーチューバーとして収入を得て生活していくためには、かなりの視聴回数を上げないといけないそうだ。そのため、自分の専門分野のみならず、ペット動画を上げたり、日常生活を写したり、様々なパターンの視聴回数を上げやすい素材を次々に増やしていく。収益を得たいんだろうなあと、だんだん痛い感じになってくる。日常生活のすべてを公開し、切り売りする。
私小説ならぬ私動画は、公私を区別することが難しくなり、プライバシーもなくなり、面倒なことになりそうな気もするのである。
何を書いているのか、わからなくなってきたけど、結局、まとめると、私動画は私小説のような側面もあり、面白いけど、私的部分をリアルタイムに近いタイミングで公開しすぎる点について、個人のプライバシーが暴露され、いくら本人が自分の意思でやっているとはいえ、危惧する面が多い。
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