プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

近藤晴彦

2015-05-03 18:21:08 | 日記
1958年

大洋入りが決まった早大の四番打者近藤晴彦外野手(22)=静岡高出身=は六日正午両親とともに静岡から上京、すぐに丸ビル内の大洋球団事務所で入団の正式契約を行った。近藤外野手は二年生の春からレギュラーとなってベスト・テンの二位、三年生のときは十二指腸かいようのため秋は出場しなかったが回復したことしは春、三割三厘で再びベスト・テン(七位)に入る活躍をした。大洋入りが決まる前、大昭和製紙入社が決定、本人は社会人野球界で活躍する意志だったが、両親からプロ入りをすすめられて大昭和に採用通知を返し五日母親ちよさん(46)と大昭和へ行き話しあいをすませている。1㍍73、67・5㌔、右投右打、背番号は7番。

森社長の話 メガネをかけているのが気になるが、このハンデを除けば足も早いし、バッティングもあるので優秀な選手だと思う。静高時代神宮でホームランを打ち、早大に入る前すでに南海あたりからねらわれていたようだし、大器になる将来性はある。

近藤選手の話 初めは大昭和に行くつもりだったが両親からプロ入りをすすめられ、プロへ行くなら早大でお世話になった森さんのいる大洋と決めたわけです。ナイターをやった経験がないので、メガネがどのくらいハンデになるか心配になりますが、もう一つ体のコンディションをうまく保って行けるかどうかも心配です。
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田切勝之

2015-05-03 18:05:15 | 日記
1956年

毎日オリオンズでは三十一日午後三時同球団事務所において神奈川大の主将兼二塁手で四番を打つ田切勝之選手(21)と正式契約を行った旨発表した。同選手は五尺五寸、十八貫五百、右投右打神奈川県下五大学リーグでも二十九年春から今年の秋までの六シーズンに首位打者三回、二位二回と常に四割近い打率をあげ、守備も確実で大洋、阪急もねらっていた。毎日入団の動機は先輩の鈴木を募って入団したものである。

別当監督の話 田切君は鈴木の後輩で在学中の成績が非常によいと聞き、内野陣の補強を急務とするウチに来てもらった。高校時代から一貫して二塁を守っていたそうだがウチでも二塁をやらす。体はご覧の通り上背がやや不足だが、がっちりしているし高校時代サッカーで県下の優秀メンバーに加わったことがあるのでもわかるようにタフだし、ファイトがあるので楽しみにしている。

田切選手の話 正直にいってどこまでやれるかはわからない。しかし先輩の鈴木さんもおられることだし、大いにがん張りたいと考えている。上背がないのが自分でも残念だが、腰や足は他の人からも太いといわれるし、高校時代サッカーで鍛えていたので体はなんとか自信があるつもりだ。作新学院からは大映に渡辺光明、国鉄に渡辺光央、飯村誠とプロ入りしましたが、国鉄の方の二人はやめたので、僕は大映の渡辺さんに負けないように努力したい。
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野上桂成

2015-05-03 17:16:04 | 日記
1956年

明大野球部の野上桂成遊撃手が西鉄入りした。同選手は五尺七寸五分、十八貫の体格の持ち主で同じく西鉄入りを内定されている荻外野手とは久留米商時代からの同窓生、川崎助監督の線で入団したもの。リーグ戦の出場はほとんどないが、今後の養成次第では…といわれている。
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三平晴樹

2015-05-03 16:55:26 | 日記
1957年

大毎オリオンズ入りの決定した日鉱日立の三平晴樹=みひらはるき=投手(19)は十三日午後一時毎日新聞東京本社第三会議室で父親芳雄さん(47)につき添われ入団の契約を行った。同投手は今春秋田商高を卒業後、日鉱日立に入社したものだが砂押監督の指導でメキメキ腕をあげ、ことに今秋の産業野球の対東洋紡富田戦で15個の三振を奪ってからにわかに脚光をあび大毎のほかにも近鉄、大洋からの勧誘の手がのびていた。しかし同投手が秋田市の出身であったことから在京球団を選ぶところとなり大洋と大毎が激しい争奪戦を演じたすえ大毎が獲得に成功したもの、五尺七寸五分、十八貫五百、左投左打の速球投手。

別当監督の話 三平君については前から注目していたが、先日立教と日鉱日立の試合が水戸であり、そのとき三平君をみてこれならいけると思った。フォームが整っていて一見中日の中山君に似ているが、これからの人として将来を楽しみにしている。私は常時九人の投手を持ち、うち左投手三名が理想と考えているが、荒巻、和田功が落ち目のときに三平君が入ってくれたことは心強い。補強はもう一人ねらっているが、まだ交渉中でそれは大物というほどのものではないが将来性のある選手だ。

三平投手の話 一日でも早くプロの水に慣れたいものです。近鉄と大洋からも話はありましたが、大毎が一番働きやすい球団だと思っています。いままでは直球一本やりでしたが、これからはドロップとシュートを勉強したいと思っています。

父親芳雄さんの話 これでホッとしました。晴樹が野球をはじめたのはちょうど終戦直後の小学三年のときで、もののないときだったので右のグラブを左にはめてやっていました。性質は私の口からいうのもおかしなものですが素直でむしろおとなしすぎるくらいです。どうぞ立派なプロ野球人になってほしいものです。
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中野健一

2015-05-03 10:55:16 | 日記
1956年

同選手は五尺七寸、十八貫、右投右打、法政大当時からその華麗な守備を誇り、三十年東京徳大学秋季リーグ戦では三割八分三厘で首位打者、三十一年四月日石に入社して夏の都市対抗野球の日石優勝に貢献し、九月にミルウォーキーに遠征、世界野球でもはなばなしい活躍をした。経験も豊富で打守走三拍子そろった同選手の加入によって毎日オリオンズの内野陣は面目を一新するものとして期待される。なお同選手は十九日から八王子での強化練習に参加する。

黒崎代表の話 毎日のここ数年来のガンといわれていた内野陣のもろさにシンを入れる意味で中野君の加入は非常に喜ばしい。毎日が今年九十五本のホームランを生かし得なかったのも内野陣の弱体であったのだから、中野君が内野陣の中心となって活躍してもらえば来年からは本塁打も生きてくる。中野君はその人柄においてもオリオンズの選手にふさわしく、私はこの点にほれこんでいる。中野君は将来ある意味でのオリオンズのシンボルになるにちがいない。

中野選手の話 昨年リーグ戦終了後二、三のプロ球団から話はあったが、プレーに自信がなく、野球で飯を食うのをあきらめて日石に入った。しかし日石で夏の優勝と海外遠征でいくらか自信も持てるようになったのでプロに入ることにしたのだ。こんどもいろいろと話はあったが母が入院しているので在京球団ということを第一に考え、いくらかでも親孝行をしたいと思ったし、毎日オリオンズの黒崎代表、別当監督の人柄にふれチームカラーも若々しく思いきりやれそうなので毎日に入る決心をした。
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佐藤好夫

2015-05-03 10:34:21 | 日記
1957年

かねてからプロ入りをうわさされていた東北高の佐藤好夫投手(18)はこのほど西鉄ライオンズと正式契約を行った。同投手はこの春の選抜大会に出場、六尺一寸、二〇貫の体格から投げ下ろす豪速球は東北球界随一の好投手として、西鉄のほか、毎日、近鉄、広島、阪神、中日、国鉄などほとんどの球団から勧誘の手が伸びていたが、優勝のできる強いチームということから西鉄入りが決まったもの。右投右打でバッティングもあり、五番打者として夏の大会予選では三割二分七厘をマークした。

父親馬之助さんの話 条件としては西鉄よりよいところがあったが、好夫が西鉄入りを希望していたので本人の意志を尊重し、この十六日宇高さん(西鉄渉外部長)と契約を行った。
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