プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岩上江笠

2015-05-17 23:15:19 | 日記
1962年

岩上江笠投手(24)…丸善石油、立命大出、右投右打、1㍍75、74㌔、背番号58

岩上投手も立命時代からスカウト合戦の渦中にあったほどの役手、しかし、昨年丸善石油に入社してからは練習不足などから十分の活躍が見られなかったが、素質は十分あり、近鉄の戦力になるものと期待されている。

岩上投手の話 江田さん(スカウト)が熱心に誘ってくれましたので、プロ入りにふみ切りました。プロでは自分なりに十分やれる自信はもっています。近鉄を選んだのはやりがいのあるチームだと思ったからです。
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塩津義雄

2015-05-17 22:57:47 | 日記
1957年

毎日オリオンズでは有楽町の同球団事務所で鹿児島商の塩津義雄選手(18)=六尺、十九貫五百、右投右打=と正式契約を行った。塩津選手は九州球界では長距離打者として定評があり、高校時代、四割六分四厘の驚異的な打率をマークしたスラッガー。
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山本公士

2015-05-17 22:12:45 | 日記
1963年

阪急ブレーブスでは十三日午後三時から大阪市北区梅田阪急航空ビル五階の球団事務所で、山本公士外野手(21)=身長1㍍64、体重58㌔、右投右打、熊本工ー三菱長崎造船=の入団を正式発表した。背番号未定、研究期間は50試合である。同選手は阪神山本哲捕手の実弟、小柄だが俊足巧打の持ち主である三菱造船時代の成績は37年35試合124打数40安打10打点、打率三割二分三厘、盗塁19。38年は9試合23打数8安打、三割四分七厘の打率を残している。彼の場合、巧打もさることながら、100㍍11秒2という足の早さが魅力だ。阪急はこの点に大きな期待をかけている。
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白野清美

2015-05-17 21:48:13 | 日記
1957年

南海ホークスでは連日午後十二時半より約二時間中モズ球場においてトレーニングをつづけているが、きのう十三日の参加選手は先月二十二日に帰国した藤重捕手、今月七日堺市綾野町の田上病院で盲腸手術を行って入院中の皆川投手、自下感冒のため自宅で療養中の木村投手ら三名を除く総員37選手で、このほか新人テストで採用された白野清美内野手(18歳、鳳高ー大和川染工、5尺8寸、20貫、右投右打)が背番号65のユニフォームをつけて、練習の仲間入りをしていた。この白野選手は九月二十四の両日大阪球場において行われた新人テストにパスした5新人中の一人で、テストのときには中村大成投手の投球を左翼席に叩き込んだ怪力の持ち主である。
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小木曽紀八郎

2015-05-17 21:23:22 | 日記
1963年

社会人球界の大型三塁手といわれた大昭和製紙の強打者小木曽紀八郎選手=豊橋工出=が中日ドラゴンズへ入団を決定した。同選手は身長1㍍81、体重73㌔で高校時代は一塁手だったが、大昭和製紙に入社してからフット・ワークのよさと柔軟さを買われて三塁手に転向。今季静岡で行われた社会人野球大会では健棒をふるい、優秀選手に選ばれている。この大会以来にわかにプロ球界から脚光を浴び、地元の中日はじめ大毎、阪神から誘われていたが、プロ攻勢に大昭和の具志監督は「小木曽はいまのウチにとっては手ばなせない選手だ」と誘いの防波堤になっていた。しかし中日本多スカウトの熱心な誘いに本人もようやく納得して、中日入りを決意した。

本多スカウトの話 多少打撃に荒さはあるが、ツボにきた球は80%オーバー・フェンスする力の持ち主だ。将来チームの主力打者になる素質は十分持っている。

小木曽選手の話 プロでやるなら地元の中日でやりたいと思っていた。家族もボクの意思に任せるというので、大昭和に入社するについてお世話になった瀬古さんに了解を求め中日に返事したい。
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佐藤一誠

2015-05-17 21:06:53 | 日記
1963年

国鉄スワローズは、二十八日東京有楽町の球団事務所でさきに国鉄入りを内定していた神奈川大の佐藤一誠外野手(19)=左投左打、八王子学園高卒=の入団発表を行った。背番号は54。同選手は1㍍76、体重75㌔で、一年生ながら神奈川大の四番打者として神奈川五大学春季リーグ戦に優勝し、大学選手権に出場した。選手権は三回戦まで勝ち進み、8打数4安打で五割の高打率をマーク、巨人、大洋、中日からも勧誘をうけていた。百㍍12秒の俊足の持ち主だけに左打者不足の国鉄にとっては貴重な戦力となりそうだ。

佐藤選手の話 高校と大学では高校があまり有名でなかったので花やかな球歴はない。それだけにプロで自分の持っている力を試してみたいと思っています。先日の千葉大会と、二十四日飯田市での対明大戦では石岡投手からホームランを打ったことがあります。
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木村軍治

2015-05-17 20:59:53 | 日記
1956年

東映フライヤーズでは二十一日豊川高木村軍治(18)遊撃手と正式契約したむね発表した。同選手は五尺七寸五分、十七貫五百、右投右打、豊川高一年生のときからレギュラーとして出場、最終学年度には三番打者で三割四分の好打率をあげており、百㍍を12秒で走るという快脚の持ち主、本年度高校全愛知の二塁手として選ばれている。東映では好守好打の遊撃手としてすぐに使えると大きな期待をかけている。
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長倉大宝

2015-05-17 13:52:37 | 日記
1957年

近鉄パールズでは二十六日午後三時、上六近鉄本社で大分県中津東高の長倉大宝捕手(17)=五尺七寸十七貫、右投右打=と正式契約を結んだ旨発表した。近鉄では九州球界から宮崎大宮高校長田投手を獲得したが、長倉選手も劣らぬ好選手で強肩、とくに在学時代の通算打率は、三割四分一厘が示すようにシュアーな打棒は高く評価されていた、今季捕手難をかこつただけに同選手の将来の成長に大きな希望を持っている。

長倉大宝選手の話 球道ただ一筋を目指して近鉄入団を決意したわけですが、球界最高峰のプロ野球界で未熟な私がどこまでやれるかちょっと心配です。でも入団した以上一日も早く第一線で活躍できるよう練習に励み、皆様の期待に応えたいと思っています。
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中川原了

2015-05-17 13:51:13 | 日記
1957年

東映フライヤーズでは二十日中川原了投手(18)=三養基高=と契約した、同投手は九州地区でも全く無名だが、高校二年まで陸上競技の選手だった、五尺九寸、19貫、左投左打。
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加藤康雄

2015-05-17 13:18:16 | 日記
1957年

中大陸上競技部ヤリ投で活躍した加藤康雄投手(20)=経済学部二年=が、このほど野球に転向、巨人軍に入団することになった、同選手は。和歌山田辺高時代、野球部に在籍していたが、試合身体をこわしたためヤリ投げを始めたもので、昨年レスリングから転向した桂本(国鉄)につぐ異色ケースとして注目されている。五尺五寸、十八貫、右投右打。
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牧田政彦

2015-05-17 13:08:15 | 日記
1957年

パ•リーグ阪急ブレーブス入団が内定していた長野県伊那北高の牧田正彦投手(18)は二十五日午後一時半角田町の同球団事務所において正式契約を行った。同投手は六尺五寸、十九貫五百の体格に恵まれた巨漢投手で左腕から投げおろす快速球には定評があり、一試合平均10個という素晴らしい記録をもっており、プロ球団スカウトの注目の的であった。阪急のほか近鉄、巨人、国鉄などからも勧誘の手が伸びていた、阪急では梶本につぐ大型左腕投手としてその活躍を期待している。

牧田投手の話 阪急のほか巨人、国鉄、近鉄から勧誘を受けました、阪急にきめたのは前々からチーム•カラーが好きだったし、梶本さんというこの上ないよいお手本がおられますし、梶本さんを目標に大いに頑張りたいと思います。

木地社長の話 牧田君は上背もあるしよい素質の持ち主だと聞いているのできっと私たちの期待に応えてくれると楽しみにしている。
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