プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

関口一郎

2016-04-29 15:02:16 | 日記
1958年

昨春の六大学リーグ、慶明二回戦に関口が登場しなければ、彼に誘いをかけるプロ球団はおそらくなかったのではあるまいか。というのは、彼の場合、性格の弱さがわざわいしてヒノキ舞台ではついぞ日の目をみたことがなかったからだ。彼は練習のときやオープンゲームでは強打者連を簡単に料理するが、いざ神宮のマウンドを踏むと、スピードががた落ちするブルペンエースにすぎなかった。ところが最高学年を迎えた昨春、慶明戦で強打の慶應を五安打に封じてシャット・アウト。いらいめきめきと自信をつけ、押しも押されぬエースとなった。このゲームは彼が明治に入ってから三度目の登板。二十九年秋の慶明戦では見事にKOされているだけに、彼の先発を危ぶむものが多かった。しかし島岡監督が反対を押しきって起用したのは、三十年冬の台湾遠征での彼の活躍ぶりと、精神的な成長を高く評価したからだという。春秋の筆法を借りるなら台湾での秋山の不調が、こんにち関口を生んだわけだ。明治高校時代、迫畑監督に教えを受けたのがキッカケで大洋に入ったが、下半身が弱いのを意識して、シーズン・オフにもランニングをつづけたとのこと。キャンプ・イン前半には期待していない、と迫畑監督はごく控え目だが、もともと素質には恵まれている。「手足がすっかり固くなって、自分でも情けなかった」と公式戦に初登場したさいの思い出を先輩の沖山が語っていたが、あがってもともと、なんどか登板するうちには自信もつこう。大洋の左投手といえばかつてのエース権藤や小林経と鈴木ぐらい。なによりもこれらの旧人にとってかわるぐらいの意気ごみと自信を持って投げまくることだ。身長1㍍77、体重73㌔、21歳、背番号25。
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江崎照雄

2016-04-29 12:18:24 | 日記
1958年

江崎は高校球界の名門中京商高の出身で、現中日中山投手の一年先輩である。高校当時から豪速球投手として定評があったが、甲子園には二十六年春の選抜に出場しただけで、それも準々決勝で長崎西高に敗れている。二十八年には日大進学したが、河内(現阪神)島津ら好投手が目白押しに並んでいて出場の機会を得なかった。このように彼の球生活は恵まれたものではなかった。高校時代には大学級の速球といわれたほどであり、しかも1㍍86、76㌔という優れた体格の持ち主の彼が、なぜこのように悲運の道をたどったか。それは気性の弱さがわざわいしていたのである。しかし昨秋のシーズン、エース島津が精彩を欠くにおよび責任を感じて異様な奮起を示し、救世主的役割を演じて見事日大に優勝をもたらし、同時に最優秀投手に選ばれたのだ。もしこの活躍がなければプロから誘われることもなく、「ノン・プロ選手としておさまってしまったかも知れない。江崎のピッチングは真っ向から打者にぶつかっていく本格派である。スピードだけなら毎日の中西投手をしのぐかもしれない。しかしカーブはまだまだ本物ではなく、学生時代のままならプロではねらい打たれるに違いない。速球を低目にコントロールすること、カーブはブレーキは小さくても、もっと鋭くすることが必要だろう。別当監督は「昨年のリーグ戦で二、三度みたが、球の速さだけはすばらしい。カーブはものになっていたが、とにかく未完成の大器だ。幸いウチは江崎の先輩にあたる野口さんがコーチだし今シーズンは小野、中西と三人で若手トリオを組んでがんばってもらう」と大きな期待を寄せているが、江藤も「プロへ入るなら毎日にと思ってきたが、入ってみていっそう毎日が好きになった。監督さんが私をずいぶん買ってくれているのでやりがいはあるし、なんとかがんばってみます。ことし大学からプロ入りした東(立教ー南海)木村(早大ー南海)関口(明大ー大洋)には負けられません」とたいへんな気負いようである。新星は新星でも惑星といったところだ。日だ卒、右投右打、23歳、背番号15。
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東実

2016-04-29 11:30:46 | 日記
1958年

「東は頭が細長いから身体もひ弱いんだろうと思っていたら、この間プロで見ると筋骨リュウリュウとしていたので見なおしたよ」と中原ピッチング・コーチは言っていたが1㍍75、65㌔の身体は、プロではさして驚くにたらないが、その容姿からは強固な精神力とすぐれた耐久力を秘めているのが感じとれる。山本監督は「木村同様、プロ一年生の彼に、昨年活躍した秋山のように働かれると、恥しいからナ・・・」と反射心理学をさしむけているがそれだけに東も内心きっとやるぞの熱意に燃え上がっている。この彼、今冬は数少ない左腕投手というので多くの球団からねらわれたが、大学入学当初はイバラ街道を夢みていた。しかし二十九年、明立戦で当時秋山(現大洋)を向こうに回して、堂堂と四連投したころから芽が出はじめた。六大学でも過去六、七人しか記録しなかったノー・ヒット・ノー・ランの偉業を東大戦で樹立した。だが木村はともかく東はプロでは・・・・と不安の念をいだかれていた。というのは練習時の重い速球が一度マウンドに立てば霧の如く・・・というところから来たもの。肝心のモーションの緩慢さとともにこんごきょう正しなくてはならない課題だろう。柚木コーチも「現状では本格的なピッチングをしていないので、これをどうきょう正するかは考えていないが、下手にコーチして阪神の井崎の二の舞を踏んでは」とためらっている。しかし当人は「プロの打者を具体的に研究したわけでなし、もしモーションが緩慢とあれば改良出来る・・・・ともかく第二の柚木さんになるのだ」と言い切る。図太い神経の持ち主である。
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布施勝巳

2016-04-29 10:18:22 | 日記
1958年

牧野以外は上位チームに対抗できない東映投手陣にあって、布施はしばしば南海や西鉄戦にかり出された。布施が比較的切れのよいシュートを持っているのを買われたのだろう。しかしここ三年間の上位三強との対戦成績は、西鉄に2勝5敗、南海に2勝12敗、毎日に3勝5敗と大きく負け越している。プロ入りいらいの通算成績が34勝54敗、だいたいがこのていどの投手なのだからさして驚くほどでないかもしれないが、勝率をだしてみると通算が・386のなかで三チームには・242で極端に悪い。布施の得意はスリー・クォーターからのシュート・ボール、内角にくるとこの球はたいてい沈むのでちょっと打ちにくい。カーブも低目にきまったときには手こずる。しかし布施の命とりは年々スピードが減退していることで、ために持ち味のシュートを生かし得ない結果となっている。まだ二十五歳の若さでもって、ちょっと解しにくいことである。上位三チームの打者にはやはり打ち込まれている。西鉄では中西に・455、大下に・364、関口に・556、南海では森下に・348、寺田に・313、毎日では荒川に・444といったところが布施の苦手というわけ。ほかでも野村には・286ながら3ホーマー7打点を与えている。一昨年の布施はこのうち森下、野村の南海勢を完全に押え、森下には・100、野村には・000であったのだが、二人の成長を別にしても、スピードが衰えて、その力に屈した格好である。逆に得手としているのは高倉、豊田、広瀬、大沢、杉山、醍醐、岡本健、木村、鈴木、佐々木といったところ。全部を2割以下にとどめている。このうち杉山が打てなかったのは昨年はかれ自身ふるわなかったからであろう。一昨年なんかは・455の高打率をマークしている。豊田も一昨年は・385であった。しかし不思議なのは高倉の・000だ。名にしおイン・コース打ちの高倉がイン・コースで勝負する布施を打ちあぐんでいるのは皮肉な結果である。芳ばしくない投手として結果とともにめだつのは、走者の盗塁を簡単に許してしまうヘッド・ワークの全然見られぬ投球に入るまでの態度である。かれがマウンドにあるとき35回の盗塁を企てられ、そのうち阻んだのがわずか4回というのは、捕手の責任よりもかれのセット・ポジションから投球に入るタイミングが悪いからである。山本、安藤が強肩の持ち主であり、牧野と組んでいるときは5割以上の刺殺率をあげているのだから、布施の責任というのは明らかである。根本的には投球にスピードを取りもどすことが急務だが、このへんの研究が行われねばいつまでたっても成績の向上はみられまい。
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