プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山田勝国

2017-07-02 00:13:46 | 日記
1972年

福岡で生まれ、福岡で育った山田だが、博多なまりはない。自らコスモポリタン野球人と称するように近鉄の九年間を大阪に住まい、そしてことし東京に住むことになった。だが、平和台の位置する福岡城にきて冷たい石組みにふれると手のひらに幼い日々の思い出がかえってくるのだ。カッチンの警固(けご)中学校は平和台球場のレフトの下にある。狭い校庭を抜けると、幼い足でふまれた道がフェンスまで登っている。「学校がひけると、いや、途中で抜け出してまでも野球を見にいったもんです。当時は改装前でフェンスが低かったんです。クスノキに登って、そこがぼくの指定席でしたわ」三十二年前後。三原が率いる野武士の集団・西鉄の黄金時代だ。中西が打席にはいると、カッチンはするするとすべり降りる。フェンスの外でじっと待つカッチンの前に中西のホームランが飛んできたものだ。あこがれの目で白球にサインをねだるカッチンの頭を武骨な手がなでてくれたという。「おかしなもんですね。あんなにあこがれて、ドキドキした人と一緒に野球をやるめぐり合わせになったんですからね」慶長六年に築かれたこの平山城は山田の幼い日のワンパク道場だった。どのクスノキにせみが多く止まるかも知り尽くしていたし、潮見櫓(しおみやぐら)近くではアキアカネがぶんぶん飛んでいたことも知っている。中学までおよそボールとは縁がなかった少年が、ある日突然野球を志した。医師の家系に育った少年は山田家にとって異端児だった。だが話のよくわかる両親はカッチンのゆく道を心よく認めてくれたという。近鉄時代、月に一度の遠征は決まって両親の家(市内若久御畠山)に泊まった。いまごろの季節には必ずフグ刺しが山田を待っていた。二十八日夜、博多入りした山田はそのまま生家へ向かった。新天地ヤクルトでは博多に帰ることはあまりないだろう。ふるさとが遠きにありて思うものならば、これからの山田にとって本当の故郷になるのが博多だ。四年ぐらい前までは福岡城の石ガキにきたない署名が残っていた。幼い手でエンピツ彫りを一心に振るった。山田だった。「もうあまり博多に帰ってくることもないでしょう。そう思ったら、無性にあの石がなつかしくなりましてね」彫り後はうすれて判じがたかった。山田はその石に故郷をかぎたかったのかもしれない。だが中西のあのプリプリしたおしりにも、もう一つの故郷があることを山田は知っている。
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