プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

宮田征典

2017-07-12 20:46:54 | 日記
1965年

「ミヤタ、しんどい。ノー・スピード」三回、トップの広瀬を中飛に打ちとった宮田のピッチングを見たスペンサーが、審判室にもぐりこんでいた顔見知りの記者にかたことの日本語をならべた。読めはしないのだが、日本語のスポーツ新聞までスクラップしているほど研究熱心なスペンサーは宮田のすべてを知っていた。それだけに、余計宮田の不調がピンときたようだ。大本塁打ー宮田は「0-2になったので、内角にシュートを投げてつまらせ、そのあと外角で勝負しようと思ったんだ。計算通りつまったんだが、もっていかれてしまった」と、いった。この試合では、宮田は四回から登板することになっていた。そして先発村山が打たれた場合のリリーフは、城之内の予定だった。だが、イザとなると、藤本監督も、いつも手痛い目にあわされている宮田にたよる気になったのだ。そのため、宮田はわずか15球ほどブルペンで投げただけで、登板しなければならなかった。このへんが、混成チームの悲劇ともいえるだろう。それに宮田は、十八日の対中日戦で3イニングをノー・ヒットにおさえている。それやこれやで、宮田のタマは、いつもより20㌢も高かったー。いつも火の手をあげる城之内が、宮田の火消し役を果たして、公式戦の恩返しができたのも、せんじつめれば、藤本監督のお呼びがないばかりに、十分な肩ならしができたからというのは皮肉である。女房役の森捕手は、しかたがないという表情で「宮田は全然ゼロやったな。タマが死んでいたし、落ちるタマが落ちんかった。高木の本塁打、堀込のヒットは、二本とも落ちよらんで打たれた。連投のうえに、アップ不足だもんな」といっていたが、そのころ、藤本監督も「宮田には気の毒なことをした」と、ホゾをかんでいたのである。宮田が打たれて、オールスター・ゲーム第一戦のユメは消えた。だが、宮田が、このままで引きさがるわけがないことは、打ったスペンサーがよく知っていた。「ミヤタは、もしあす投げれば、いいピッチングをするだろう」その宮田は、ロッカーに引きあげると、小守トレーナーの入念なマッサージをうけたあと、こんな冗談をとばしながら帰っていった。「いつもの時間に、きょうは帰るよ」時計の針は八時半をさしていた。普通なら、宮田が拍手をあびながら登板する時間だ。
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宮本洋二郎

2017-07-12 20:21:14 | 日記
1964年

「目方だけは、どうやらプロなみなんだけど・・」という宮本は、1㍍73しかない自分の身長をだいぶ気にしている。しかし、ことばとはうらはらに不敵なつらだましいをを持っているのはたのもしく、会うものに、ふてぶてしささえ感じさせる、根性の持ち主である。米子東高から早大に進んで、すぐにエースといわれたその夏、自動車事故で、重傷を負ったにもかかわらず、見事カムバックしたのだから、なみなみの根性ではない。右の側頭部を強打したため、右目の視力がゼロになったが、毎日のように目の玉に、注射をしていたころは、さすがの宮本も、もうダメかとさえ思ったそうである。しかし、野球をやりたいという気持ちを、どうしてもおさえ切れず、包帯をグルグル巻いたまま、医者の目を盗んで病院の庭におり、石を投げて、右肩のだいじょうぶなことを確かめたという。性格の強さは、当然、彼のピッチングにもあらわれる。ピンチになっても、顔色ひとつ変えないばかりか、堂々と投げ抜く気力となるわけだ。入団を勧めた内堀スカウトも、この度胸の良さを高くかったのである。巨人の選手のなかにはいって、異色の存在となるに違いない。といっても、宮本には、神経の細かい一面もある。早慶戦の前の日に、コップいっぱいのナマ水を飲むのさえ、ピッチングへの影響を考えたという。ことピッチングになると、細心の注意をはらうのである。もともと荒っぽさから、大まかなピッチングをしていたかれに、決定的なショックを与えた試合があった。それは三十五年春の選抜高校野球での決勝戦。山口(高松商ー現阪急)にサヨナラ本塁打を打たれてしまったのである。肩口に得意のシュートを、自信たっぷりに投げたところ、真ん中にはいってしまったのだが、それ以来、マウンドに立って、一球もおろそかにできない、ということが身にしみたのだそうである。「悪夢のような、あのタマ」と、いまでもいうが、マウンド上の宮本は、苦い経験から自分なりに考えに考えたうえで投げる習慣がついたのだという。広島の池田や、大洋の稲川のように、小さくすばやいモーションで、直球、変化球を一球一球たんねんに投げる。低めへのストレートは速く、落ちるシュート、カーブ、スライダーをうまいところへ決める。左右のコーナーワークもいいが、欲をいえばこれという決めダマがない。コントロールと配球のうまさで、はじめて威力を発揮するタイプ。六大学では、先発型として使われたが、プロでは、持ち前の度胸とコントロールを生かしてリリーフに案外多く使われるかもしれない。この点、投げ込んで、徐々に調子をあげていく習慣を身につけている宮本にとって、リリーフはいくぶん苦手といえるかもしれない。それに大事な場面で投げるには、ひねくれたクセダマを持っていないという不利な面もある。しかし、宮本には、それ以上に、スピードとコントロールの利点に加え、ド根性の長所が大きく生かされるのではないだろうか。小柄とはいえ、全身ハガネのような筋肉につつまれた、がっしりしたからだの持ち主だけに戦力としての期待は十分といえよう。

ー巨人を選んだ動機は・・・。
プロで野球をやるなら、巨人以外ないと思っていました。藤田さんのような、うまいピッチングをぜひ身につけたいと思います。
ープロへはいっての目標は。
からだは小さいが、どんなきつい練習にもくっついていく自信があります。六大学で投げられたからといって、すぐプロで投げられるというわけにはいかないでしょう。下半身をもっときたえて、スピードと、変化球の切れを鋭くしなければ、プロのバッターには通用しないと思います。
ーリリーフで使うという話もあるが・・・。
いまではほとんど先発、完投として使われ、リリーフは数えるほどでした。それも失敗ばかり。だから、自分には、苦手意識がないことはありません。しかし、投げる以上、先発でも、リリーフでも、同じはずです。先発の第一球と、リリーフの第一球と、ぜんぜん違うはずはありません。とにかく、一軍で投げるというのが、目標ですから。
ー見えなくなった右目はだいじょうぶか。
右の視力は0.8まで回復しています。左が1.5なので、かたちんばですが、バッティングの距離感をみたり、バッティングで、ボールをとらえたりするのには、さしつかえありません。
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倉田誠

2017-07-12 19:32:54 | 日記
1972年

「いかん」と自分でも思った瞬間、倉田は降板への道をまっしぐらにすべり落ちていた。7点のリードを背負った五回、先頭の加藤を2-1と追い込んだ4球目、ゆるいフォークボールが真ん中やや低めに落ちたとき、打球ははじかれたように左中間深く抜けていた。東映反撃のきっかけとなった貴重な二塁打である。倉田は加藤のヤクルト時代、試合でときどき顔を合わせている。「あそこは加藤の好きなコースなんだ。でもフォークならなんとかなるだろうと、ファッと投げてしまった・・・」と倉田はいう。相手のツボへ、しかも甘いタマ。倉田のもっとも得意なフォークボールであってもこの日は肝心の切れが悪かった。しかも「ファッと・・・」では打たれるのも当然。倉田の失投というより「相手は下位」という過信が生んだ落とし穴といったほうが適切のようだ。倉田はこのあと簡単に二死をとりながら、阪本以下に連続4長短打されて4点を失ったが、張本には2-2と追い込んだあと「真ん中にストレート」を投げて傷口をひろげている。六回にも阪本に2-2から3ラン。倉田が浴びた9安打のうち、カウントを追い込んでから打たれたのが全部で6本もあった。「なにを考えて投げているのか」川上監督は人前でめずらしく語気を鋭くして倉田の甘い心をなじったのもムリはなかった。四回までの倉田は、テキサス1本を含む2安打を許しただけ。スピードもあり、自分でも「完投」を考えていたという。それが、加藤への一投を境に、あっけなく沈没。問題の五回1イニングだけで、実に31球も投げ、投球数はこの回で100球を越えていた。当然、疲労からスピードも鈍ってくる。その結果「押え込もうという気が先走って、気持ちに余裕がなくなった」という通り、決めダマであるフォークボールに切りかえたが「低めのキレがよくなかった」のが、五、六回の大量失点につながった。藤田コーチは試合後「すっかり自分のペースを乱してしまった。力はあるのだが、おのれを忘れるのでは、まだまだ一人前とはいえない」と手きびしい忠告を与えた。倉田は、今シーズン、堀内、高橋一とならんで、新三本柱と期待される一人。それが精神的なモロさから、ポキリと折れてしまったのでは、首脳陣も頭が痛い。
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