プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渋谷幸春

2017-07-05 22:43:56 | 日記
1973年

予定の6イニングをピシャリ押えて一足先にベンチを飛び出した渋谷の足元は、ウキウキはずんでいた。「打たれると思ったけど、よかったよ」。その言葉とはうらはらに、口元からは白い歯がこぼれそうで、ぐっと胸を張った格好はどうだ!見たかいといわんばかりだった。四月十四日の開幕まで一ケ月たらずとなって中日はこの日からいよいよ本番態勢に入り、主力投手の出陣だ。そのしょっぱなに渋谷が指名されたわけだが、散発4安打、三塁を踏ませぬ力投で、見事期待にこたえるピッチングを見せ、本人の自信はもとより、ことしの投手陣全体に明るさを投げかけた。プロの社会は一年一年が勝負。どの選手もキャンプでは「ことしこそ」を合い言葉に心機一転して出直しを図るものだが、その中で渋谷の意気込みは人一倍激しかった。9勝、10勝とトントン拍子にきた渋谷にとって、昨年は6勝5敗と不本意なシーズンだった。不振の原因について渋谷は「体調のいいときに雨で先発が流れ、悪いときに出てペースを崩した。でも、これはいいわけと思われても仕方ないし、やはり体力づくりの失敗でした」と反省する。昨年暮れからキャンプまで渋谷は毎朝六時に起床すると自宅(名古屋市中村区烏森)の周りを黙々と走り込んだ。車の排気ガスをさけて新鮮な空気の元で足腰を鍛えようと考えてのことだが、このときから渋谷のことしのヤル気は始まっていた。キャンプでもとにかく走った。それだけに体調はすでに完調だ。「きょうは変化球のコントロールがどの程度か確かめながら投げた。それにキャンプで新しくマスターしたシンカーの威力をテストした。まあまあでしたね」とニッコリした。外野の右から左へホームラン風が吹きまくり、投手にとっては投げにくいコンディションだった。しかし得意のスライダー、シュートが両サイド低めによくコントロールされた渋谷の投球は全くといっていいほど危なげなかった。シンカーは全部で7球投げたが、そのうち二回コギンスを三振、三回小川を一ゴロ、四回クオルスを一ゴロに仕止めた球は、打者の手元でストンとうまく落ちて練習の成果をはっきりと見せつけた。渋谷はこの日一番うれしかったのは、なんといっても首脳陣の信頼を得たことだろう。近藤ヘッドコーチは「みなさんが見た通りです」とニッコリしながら「球そのものに力が出ているし順調ですね。これでソロバンがはじきやすくなった」と稲葉、松本、星野仙につぐ第四の投手に期待していた渋谷の好投に満足しきっていた。「ことしはいけそうです」最後に渋谷は自信をのぞかせながらいった。スロースターターの渋谷は、過去三年間のオープン戦は1勝も出来ずに6敗とさんざんだった。だが、ことしは意気込みがそのななオープン戦初登板の白星につながった。桜の名所で知られる刈谷球場横の亀城公園の桜はまだつぼみが固かったが、渋谷は早くも八分咲きである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォイタック

2017-07-05 22:10:20 | 日記
アスプロが四十年にアメリカからつれてきたのが、元デトロイト・タイガースのリリーフ投手だったフォイタック。打者の手元でホップする重い速球、カーブ、スライダー、チェンジアップ、ナックルと多彩な変化球をあやつった。とくにナックルは変化が激しくて威力があった。これだけの球威を持ちながらノーコンのため生かすことができなかった。コースへのコントロールはゼロ。速球は高めに流れつねにボールが先行した。ただ王の一本足にナックルが功を奏し6打数無安打の3三振。これが唯一の日本への置き土産となった。現在、デトロイト市で家屋のセールスマンという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北村哲治

2017-07-05 21:44:59 | 日記
1972年

竹内が腕をあげ、三沢もがんばった。今シーズンの期待の男が右から左へ吹き抜ける最大風速10㍍の寒風の中でキャンプの仕上がりをみせる好投だった。それはともかく、頼もしかったのは二年生北村の収穫である。伊藤久にかつての力が望めないいま、左は松本一人の投手陣で、なんとか彼につづく者を作り上げるのがドラゴンズの課題である。岐阜の軟式野球から来たまったく無名のサウスポーが初めて一軍のマウンドを踏み初勝利。それも内容豊富だったのだから、近藤コーチはどんなにkうれしかったに違いない。球威はいま一つ、先発でサア来いーというほどではない。でもワンポイントやショートリリーフなら十分使えるものをみせてくれた。それだけで北村の価値はある。北村の面白いのはコントロールだ。あのスローイングからみると体に似ずスケールは小さい。どちらかというと王に強い大洋の平岡のような異色なタイプになりそうだ。同じ左のタイプでも、間柴と比較してみればそれがよくわかる。四年目を迎えながら再三チャンスを与えられているのに、なぜ間柴が1勝もできないのか。それはコントロールがないからだ。ボール、ストライクがはっきりして打者に追い込まれてしまうからである。北村は左投手にしては珍しいほどのコントロールを持っているが、これは生まれながらの天分かもしれない。ストライクに来るコースが低めに決まるのは大変すぐれた武器である。左のこういう人は貴重だ。左投手不在のいま、面白い堀し出し物になりそうである。このコントロールさえあれば、当分は捕手まかせでどんどん投げていってもらいたい。三本柱の一人へーと、三沢の期待を前日に書いた。大きく曲がるのと、小さく鋭いスライダーとを投げられるようになったのを実証してくれた。ただ問題は、近めを攻めたとき、もう一つ速さがほしいと思う。そこにいま一歩の気の弱さを感じた。内角はこの風で、きっとこわかったのだろう。でも、中途半端はいけない。図太く思い切ってほうれーである。これは捕手にも関係はあるが、左打者へのカーブの使い方、ねらうコースをよく研究してほしい。右打者なら失投も見逃してくれるが、左打者には離れるところがストライクゾーンだから、コースをはっきり見られてしまう。長崎の敬遠にスタンドはわいた。「勝たなければ」と与那嶺監督はいい、青田監督も「二度も打たれれば、心理的に尾を引くことを考えると、三沢を傷つけたくない与那嶺の気持ちもよくわかる」といっている。だがここはあくまでオープン、自分の力、相手の腕をテストする機会ではないだろうか。ベンチの親心に甘えていてはいけない。「オレはこうしたい。投げさせてください」とアピールするくらいのファイトが三沢にあったかどうか。それがオープンなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迫田七郎

2017-07-05 21:10:26 | 日記
1971年

中川球団担当は二十九日球団事務所に迫田投手を呼び、自由契約選手にすることを申し渡した。これで中日の自由契約選手は二十七日に発表された小泉、佐藤選手らと合わせて七人となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜田総国

2017-07-05 20:54:54 | 日記
1971年

六日、浜田総国捕手(26)の任意引退が決まった。同選手は三十九年熊本県八代一高から中日入り、ことしで八年生。一軍出場の経験はないが、リードのうまさには定評があった。球団は来季も契約する意向でさる十一月三十日、条件を提示したが、本人の「八年間お世話になりましたが、将来を考えてこのさい転職したい」という意思が強く、この日の話し合いで任意引退が決まった。今後の身のふり方は未定。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする