1975年
野球選手のひじ病は、ひじに無理な負担をかけるので起こる。プロ野球の選手、特に、ピッチャーにとっては選手寿命を断ちかねない職業病のひとつ。関節の部分に軟骨の突起が出来、これを切除することで痛みは止められても、その手術によって、本来のパワーを回復できた例は、極めて少ない。
八月末、日本ハムの給料日。東京・六本木の球団事務所の社長室で、三原脩球団社長は、入団二ヶ月目のジョージ・カルバー投手と向かいあい世間話をしていた。身長189㌢、88㌔、赤毛をのばした神経質そうなこの白人の大男は、このところ負け続きでふさぎ込んでいる感じだった。パ・リーグ後期の「優勝」をうたい文句に呼び寄せたもの、ここ数試合の非力なピッチング内容に、三原さん自身も読み切れない感情を抱いていたところだった。半そでのスポーツシャツのそで口からのびた太い、毛むくじゃらの右腕。なに気なく長髪をかき上げたとき、三原さんは、心中「アッ」と叫んだ。それから、思わず「ウーン・・・」と、うなってしまった。ひじの部分にタテ7㌢ほどの大きな傷跡をみたのだ。知将と呼ばれた三原さんの目には、その傷跡がなんであるか、聞いてみる必要はなかった。軟骨を切除した手術跡に、まぎれもなかった。「キズものをつかまされた」と判断したとき「私は、本人には、なにもいいませんでしたねえ。ただ、シーズンが終わったら、アメリカへ送り返すほかないと、即断しましたよ。もっとも、これは外にもらしませんでしたがね」・・・。三原さんが、このことを打ち明けたのは、ずっと後、大沢新監督就任が決定した十月末の夜だった。大リーグ通を自認する三原さんのアイデアで、日本ハムは六月、名門ヤンキースと相当額の金を払って業務提携を結んだ。補強外人を獲得するための交渉窓口の確保、フロントスタッフの交流など、球団運営に大リーグ方式を導入するねらいだった。カルバーは、その業務提携の「輸入第一号」だった。後期開幕直前の七月はじめ来日。初登板は同十二日、札幌・円山球場での対南海戦で、三回から救援に立ち、カーブ、シュート、チェンジアップを駆使して九回まで、打者二十六人に1安打だけ、無得点に抑える好投から、あっさり勝利投手になった。昨年まで、インディアンス、レッズなどに在籍。大リーグ通算四十八勝四十九敗でこの間、ノーヒット・ノーラン試合を一回やっている。彼を買い受けるのに、日本ハムはざっと五千万円近い金を投じた、といわれる。ところが、四日後のロッテ戦では、初先発したのに立ち上り4安打をつるべ打ちされて、アッという間に2失点。五回まで本塁打を含む6安打、5点を奪われて降板、敗戦投手となった。なにより球威不足。そのまま、八月はじめまで、先発しては打たれて四連敗。後は、中継ぎ専門で出番も減り、結局、一勝四敗の成績に終わった。デビュー戦だけは「ごまかし」が通じたということか。帰国前「日本のむし暑い天候が合わない。ストライクゾーンの相違はじめ日本の野球は、アメリカと違いすぎた」と語っている。が、右ひじのことは、ひとことも口にしなかった。ただ、いまになって考えてみれば、暑い昼間の練習でも右ひじにはめていたサポーターの白さが、あらためて目に浮かんでくる。日本のプロ野球には、来年もまた、何人かの新たな外人が入団する。「カルバーのひじ」が例外とは、限らないだろう。
野球選手のひじ病は、ひじに無理な負担をかけるので起こる。プロ野球の選手、特に、ピッチャーにとっては選手寿命を断ちかねない職業病のひとつ。関節の部分に軟骨の突起が出来、これを切除することで痛みは止められても、その手術によって、本来のパワーを回復できた例は、極めて少ない。
八月末、日本ハムの給料日。東京・六本木の球団事務所の社長室で、三原脩球団社長は、入団二ヶ月目のジョージ・カルバー投手と向かいあい世間話をしていた。身長189㌢、88㌔、赤毛をのばした神経質そうなこの白人の大男は、このところ負け続きでふさぎ込んでいる感じだった。パ・リーグ後期の「優勝」をうたい文句に呼び寄せたもの、ここ数試合の非力なピッチング内容に、三原さん自身も読み切れない感情を抱いていたところだった。半そでのスポーツシャツのそで口からのびた太い、毛むくじゃらの右腕。なに気なく長髪をかき上げたとき、三原さんは、心中「アッ」と叫んだ。それから、思わず「ウーン・・・」と、うなってしまった。ひじの部分にタテ7㌢ほどの大きな傷跡をみたのだ。知将と呼ばれた三原さんの目には、その傷跡がなんであるか、聞いてみる必要はなかった。軟骨を切除した手術跡に、まぎれもなかった。「キズものをつかまされた」と判断したとき「私は、本人には、なにもいいませんでしたねえ。ただ、シーズンが終わったら、アメリカへ送り返すほかないと、即断しましたよ。もっとも、これは外にもらしませんでしたがね」・・・。三原さんが、このことを打ち明けたのは、ずっと後、大沢新監督就任が決定した十月末の夜だった。大リーグ通を自認する三原さんのアイデアで、日本ハムは六月、名門ヤンキースと相当額の金を払って業務提携を結んだ。補強外人を獲得するための交渉窓口の確保、フロントスタッフの交流など、球団運営に大リーグ方式を導入するねらいだった。カルバーは、その業務提携の「輸入第一号」だった。後期開幕直前の七月はじめ来日。初登板は同十二日、札幌・円山球場での対南海戦で、三回から救援に立ち、カーブ、シュート、チェンジアップを駆使して九回まで、打者二十六人に1安打だけ、無得点に抑える好投から、あっさり勝利投手になった。昨年まで、インディアンス、レッズなどに在籍。大リーグ通算四十八勝四十九敗でこの間、ノーヒット・ノーラン試合を一回やっている。彼を買い受けるのに、日本ハムはざっと五千万円近い金を投じた、といわれる。ところが、四日後のロッテ戦では、初先発したのに立ち上り4安打をつるべ打ちされて、アッという間に2失点。五回まで本塁打を含む6安打、5点を奪われて降板、敗戦投手となった。なにより球威不足。そのまま、八月はじめまで、先発しては打たれて四連敗。後は、中継ぎ専門で出番も減り、結局、一勝四敗の成績に終わった。デビュー戦だけは「ごまかし」が通じたということか。帰国前「日本のむし暑い天候が合わない。ストライクゾーンの相違はじめ日本の野球は、アメリカと違いすぎた」と語っている。が、右ひじのことは、ひとことも口にしなかった。ただ、いまになって考えてみれば、暑い昼間の練習でも右ひじにはめていたサポーターの白さが、あらためて目に浮かんでくる。日本のプロ野球には、来年もまた、何人かの新たな外人が入団する。「カルバーのひじ」が例外とは、限らないだろう。