プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

カルバー

2017-10-01 15:33:38 | 日記
1975年

野球選手のひじ病は、ひじに無理な負担をかけるので起こる。プロ野球の選手、特に、ピッチャーにとっては選手寿命を断ちかねない職業病のひとつ。関節の部分に軟骨の突起が出来、これを切除することで痛みは止められても、その手術によって、本来のパワーを回復できた例は、極めて少ない。

八月末、日本ハムの給料日。東京・六本木の球団事務所の社長室で、三原脩球団社長は、入団二ヶ月目のジョージ・カルバー投手と向かいあい世間話をしていた。身長189㌢、88㌔、赤毛をのばした神経質そうなこの白人の大男は、このところ負け続きでふさぎ込んでいる感じだった。パ・リーグ後期の「優勝」をうたい文句に呼び寄せたもの、ここ数試合の非力なピッチング内容に、三原さん自身も読み切れない感情を抱いていたところだった。半そでのスポーツシャツのそで口からのびた太い、毛むくじゃらの右腕。なに気なく長髪をかき上げたとき、三原さんは、心中「アッ」と叫んだ。それから、思わず「ウーン・・・」と、うなってしまった。ひじの部分にタテ7㌢ほどの大きな傷跡をみたのだ。知将と呼ばれた三原さんの目には、その傷跡がなんであるか、聞いてみる必要はなかった。軟骨を切除した手術跡に、まぎれもなかった。「キズものをつかまされた」と判断したとき「私は、本人には、なにもいいませんでしたねえ。ただ、シーズンが終わったら、アメリカへ送り返すほかないと、即断しましたよ。もっとも、これは外にもらしませんでしたがね」・・・。三原さんが、このことを打ち明けたのは、ずっと後、大沢新監督就任が決定した十月末の夜だった。大リーグ通を自認する三原さんのアイデアで、日本ハムは六月、名門ヤンキースと相当額の金を払って業務提携を結んだ。補強外人を獲得するための交渉窓口の確保、フロントスタッフの交流など、球団運営に大リーグ方式を導入するねらいだった。カルバーは、その業務提携の「輸入第一号」だった。後期開幕直前の七月はじめ来日。初登板は同十二日、札幌・円山球場での対南海戦で、三回から救援に立ち、カーブ、シュート、チェンジアップを駆使して九回まで、打者二十六人に1安打だけ、無得点に抑える好投から、あっさり勝利投手になった。昨年まで、インディアンス、レッズなどに在籍。大リーグ通算四十八勝四十九敗でこの間、ノーヒット・ノーラン試合を一回やっている。彼を買い受けるのに、日本ハムはざっと五千万円近い金を投じた、といわれる。ところが、四日後のロッテ戦では、初先発したのに立ち上り4安打をつるべ打ちされて、アッという間に2失点。五回まで本塁打を含む6安打、5点を奪われて降板、敗戦投手となった。なにより球威不足。そのまま、八月はじめまで、先発しては打たれて四連敗。後は、中継ぎ専門で出番も減り、結局、一勝四敗の成績に終わった。デビュー戦だけは「ごまかし」が通じたということか。帰国前「日本のむし暑い天候が合わない。ストライクゾーンの相違はじめ日本の野球は、アメリカと違いすぎた」と語っている。が、右ひじのことは、ひとことも口にしなかった。ただ、いまになって考えてみれば、暑い昼間の練習でも右ひじにはめていたサポーターの白さが、あらためて目に浮かんでくる。日本のプロ野球には、来年もまた、何人かの新たな外人が入団する。「カルバーのひじ」が例外とは、限らないだろう。
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カルバー

2017-10-01 12:25:30 | 日記
1975年

煙るように球場を包む細かい霧を突き破って、一回バックスクリーン左の芝生席へ、文句無しにボールを運んだ野村のバットが、三回の二度目の打席から戸惑いの色を見せ始めた。決して目を見張るほどの速い球が来るわけではない。だが、それでいてバットのシンに当たらない。首をひねり、顔を紅潮させながら、野村は三度カルバーに立ち向かったが、平凡な外野フライ2本と投ゴロが残された記録だった。「丁寧に低めをついてくる。いいピッチャーや」-野村監督が強敵の出場に悩みを濃くしてベンチに引き揚げるころ、一方の中西監督は「どや、本物だろう?」と有頂天になっていた。昨年以来、日本ハムに入団した外人投手は、このカルバーで三人目。過去ケキッチ、レイで失敗しているだけに、カルバーをマウンドへ送る中西監督の胸中は、期待と不安が交錯していた。グラウンドは霧雨で滑り、力を試すには決していい状態ではない。外人投手といえども、最初につまずくとやはり立ち直りに時間がかかる。ケキッチやレイが本当の力を出せなかったのもこのためだった。そしてこの日、カルバーの最初の打者門田博の遊ゴロを野手がはじき、中西監督の胸をまた重苦しく締めつけた。しかし、カルバーは「コントロールのよさ」という点で、過去の二人をはるかにしのいでいた。門田博を一塁にクギづけのまま三回を終えて、監督の緊張をまずときほぐすと、四回からはもう完全に自分のペースに巻き込んで行った。「気候が涼しかったし、練習も日本に来てからよくやっていたので、最高のピッチングができた」と言う通り、カーブ、スライダー、シュート、チェンジアップと、多彩な変化球をあやつって、南海打線を手玉に取った。パ・リーグの試合は、北海道になじみが薄かった。札幌に姿を見せたのは、四十一年の東映(現日本ハム)-東京(現ロッテ)戦以来、九年ぶりのことである。つい十日前の巨人戦と違って、スタンドも寂しい限り。しかし、カサをさしながらじっとグラウンドを見つめるファンは、来日間もないこのカルバーの名をちゃんと知っていた。カルバー登板のアナウンスに精いっぱいの拍手を送り、そして一流のピッチングを堪能した。チームの後期に明るい光をともすとともに、日本ハムの新星カルバーは、札幌のファンにパ・リーグの野球を強く印象づけるヒーローにもなった。
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山中雅博

2017-10-01 12:01:43 | 日記
1954年

阪神は山中、小山ら若手の好投と先制の攻撃で会心の勝ち星をつかんだ。先投の山中はアウトシュート、内角球、カーブなどがいずれも低め一ぱいによく決まり、前半を快投、六回田宮の凡守備から一点を与えて、小山に引き継いだが、まず上々の出来ばえ。
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中島孝司

2017-10-01 11:32:00 | 日記
1954年

投手起用に変頭を来している南海が時をかせぐ意味で先発させた中島が先取点に守られコントロールされたカーブで近鉄打者を完封、初の完投勝利を飾った。決勝点になった初回の2点は二死一、二塁に内野の凡プレーと森下の中前適時打が続いたもの、近鉄にとってはあきらめ切れぬ失点だった。

南海中島投手「カーブがよく決まり調子はよかった。完投出来たのはバックのおかげだ」
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